東京に着いたその夜は、新宿の街を夕飯めざしてウロウロ。とにかく居酒屋しかない街だ。そんなところに一人で入っても、妙に寂しくなる気がして、コンビニで弁当を買って部屋で食べようかと思ったが、なぜかコンビニも見当らない。疲れているのだろうか。そのうち、百貨店がいくつか見えてきたのでそのうちの一つに入り、いわゆるデパ地下(って今でも言うのか?)で200円引きになってた天一の天丼弁当を買ってホテルにもどる。

途中、やっぱりガマンできなくて、夜市で生ビールを買い、プラスチックのコップに注がれた生ビールと弁当を持って部屋に戻り、夕食。BS2で『グラディエーター』を観る。

シャワーを浴びたあと、発表原稿を何度か音読しながら、息つぎの箇所や、あえてゆっくりと区切って読む箇所などを確認する。

いつの間にか眠りに落ちていた。


小田急線にのって会場へ。


会費や懇親会費などを先に払う。受付の女の子はまだ大学生で、たぶん先生が頼んだバイトの子なのだろう。4,000円払ったら、彼女から40,000円と書かれた領収書をもらった。あと、値段を書くところに僕の名前が書いてあったりした。そりゃそうだ。僕だって彼女たちの歳のころに領収書なんて書いたことなかった。

翻訳書や論文でその名前を見たことがある方たちがズラリと目の前にいて、しかもその中の一人が僕の発表の司会だったのですごく不思議な気がした。やっぱり緊張してすこし早口になってしまった。けっこう厳しい質問も出たし、うまく質問にも答えられなかった場面もあったが、なんとか終了。発表のすぐあと、厳しい質問をしてくれた先生が「たぶんあの話とすごく関係があると思うよ」と、ある研究者の名前と論文を教えてくれた。

いつも学会で発表するときに質問やコメントしてくれる先生も会場にいたので、話をする。もしかしたら、相互性うんぬんよりも、もっと別の方向から考えるべきではないだろうか、そして、話をもっと細かく考えないと、大味な話に終わってしまうのではないか、晩年の講義録に今回の発表と関係がある話があるかも・・・・などいろいろ意見をもらう。


今回の自分の発表のテーマと同じテーマが、他の個人研究発表や午後のシンポジウムでも扱われていて、自分の発表に欠けていたもの、考え直すべきところなど、いろいろと勉強になった。


懇親会で発表を聞いてくれたある先生(そのひとも本や論文でよく名前を見る方だったが、実際に会うと、論文や本のテーマから想像していたよりは優しい人だった)が、「ホッチキスさん、質問に真面目に答えようとしすぎだよ。そういうの、けっこうすっ飛ばして、自分の言いたいこと言えばいいんだよ。それに、うまく質問に答えられないときは、その質問自体が悪い場合もあるからさ」と言ってくれた。

いわゆる「反省モード」のスイッチがガンガン入りっぱなしだった僕にあえてそういうことを言ってくれたのかもしれない。

ここ数週間、自分がものすごく卑屈になってたことに気がついて、霧がスーッと晴れた気がした。

学会というものは、発表がうまくいけばそれに越したことはない。しかし、発表が上手くいった/いかなかった、あるいは質問に答えられた/答えられなかった、言い負かした/言い負かされたということだけで考えるなら、それはすごくもったいない気がする。
そういう大御所と呼ばれる人たちの中に分け入って、対面して自分の考えを述べ、場合によっては(あるいはほとんどの場合)自分の未熟さを思い知らされ、そのなかで何らかの「気づき」を得る。だって、どう考えたって、その集団のなかでは、今の自分は駆け出しのペーペーでしかないからだ。

学会で発表するときに自分に言い聞かせるのは「誰も取って喰やしない」ということ。あと、なによりも、自分が発表するものはあくまで暫定的な結論でしかなく、そこには欠点や見落としが絶対にあるということ。絶対に誰によっても「世界のすべてを語りうる真理」など語りえないこと。そして、プレゼンを通じて、そうしたものに気づき、修正し、もっと深めていくプロセスの一つとして「口頭発表」をとらえること。自分の議論を「聞かせる」のではなく、「差し出す」といこと。