今日は一日パソコンに向かって作業。ひらたく言えば・・・就活といったところだろうか、募集があったところに履歴書と、業績リストと、研究計画や仕事の抱負などを添えて郵送する準備。

履歴書と業績リストはすでに以前作ったものがあったので、それに最近活字になったものや口頭発表したものを加えて、各概要をすこしわかりやすく書き直し。履歴書は特に何も変わらないが、業績リストは、今まで1ページですんだものが2ページになった。こうしてみると、何もかも失敗だらけで、いじけてばかりの日々だったが、「いろいろやってんだなぁ」と、はかないながらも感慨深い。

その他の書類もサラサラサラと書いて、まだ紀要の抜き刷りができていない分をプリントアウト、関わった翻訳書の担当部分をコピー・・・このあたりの機械的な作業が面倒くさい。こんなとき、ほんとうに秘書が欲しい。

4時過ぎになったが、郵便局にもギリギリ間に合う。郵送代を持ってなくて困ったが、そういえば口座に1000円ぐらいならあるかもと思って銀行に寄ると、バッチシ1140円口座に残っていた。1000円引き降ろして郵便局で書留の速達(締め切りは28日必着なのだ!)にしてもらうと、ウオッ!900円!あぶねーっ!

夜は妻が飲み会なので、ぼっちゃんと夕飯。といっても、僕は食欲がないので食べたのはぼっちゃんのみ。その後、「お風呂に行こうか?」というと泣きながら抗議してきて、お風呂袋の中のタオルや着替えを全部ひっぱり出して元のところに直してしまうぼっちゃん。
しばらくして、なんとかなだめすかしてお風呂へ。

すでに車のカで眠りかけていたが、ちょうどよく会うお姉ちゃんたちも来たので、急に元気が出るぼっちゃん。ひとしきり遊んで、機嫌が良くなったところで帰宅。帰宅直後、ご就寝。


再読。読んだかどうかよく覚えていなかったが、あちこちに線や印が書いてあるので、どうやら以前、確かに読んだようだ。

身体―内面性についての試論

身体―内面性についての試論

生きた身体=ファンタジーとしての身体。
超過としての身体。
形象不可能性としての「内面性」。しかし、この内面性を生きること以外に人間であることはできない。

マルク・リシール自身の現象学解釈をある程度理解しておかなければすこしとっつきにくいかもしれないが、それでも我慢して読むとふと「あら」という文章に出会う。

なにものかが自明でなくなるときから思考が始まる。実際の生活の場における最も初歩的なことから、「思弁的な」場における最も複雑なものに異たるまで、心を引き裂くような問いを前にするときから思考が始まる。(p.31)

身体なき思考などないからであり、思考の超過そのもの―ただし、その超過が、思考に対して思考の問題を越え出ることとなるような無制限な問いへと思考をもたらすのだが―においてさえ、思考はやはり身体に受肉した思考だからである。(p.40)


大事なことを書き忘れていた。
21日、館長のうちへ絵を返しいった折、やっぱりというか、またまたお寿司の特上をご馳走になる。今回はぼっちゃんを保育園に預けてきていたので、ゆっくりとお寿司を堪能、ご馳走様でした。

24日、季節的にギリギリだったが、ぼっちゃんがぶどうが大好きなので、「ぶどう狩り」に出掛ける。ほんとうに季節ギリギリで、時代は梨というころだったので、案内係のひとに「もうこの一軒しかぶどうはやっていません。もしここがやってなかったらもうぶどうはないです」と言われてハラハラしたが、無事にぶどう狩り成功。ぼっちゃんもぶどうが樹になっているのをギラギラした目で見ていた。