保育園にぼっちゃんを送った後、妻もほんとうは今日は休みなのだが、10月に職場全体で大きな人事異動があるらしく、その辞令交付式へ。

そのあいだ、食器を洗い、掃除をして、洗濯、庭の草刈り。アッという間にお昼。ちょうど妻も帰ってきたのでうどんを茹でて昼食。


3時ごろ、せっかく妻も家にいるからと、早めにぼっちゃんを迎えに行く。
しかし、ちょうど昼寝から起きて、おやつの時間だったので、ぼっちゃんが食べ終わるのを待つ。おやつのあとは遊びの時間。みんなと一緒に庭に出て遊具を引っ張り出してきたり、すべり台を激すべりしたり、ブランコに乗ったり、「帰ろうか?」と言っても「いや」と言うぼっちゃん。

し、失敗だ・・・。早めに親が迎えに来れば喜ぶだろうとか、もうそんな時期ではないのだ。結局、小1時間ほどぼっちゃんが遊ぶのに付き合って、やっと帰宅。けっきょくいつもと同じぐらいの時間になった。

お風呂の後、あっけなくぼっちゃんは撃沈。
妻が図書館のリサイクルコーナーで拾ってきた『剣客商売』を読み終わってしまった。
リサイクルを待つのもいいが、よく考えれば、図書館で借りてくればいいのではないだろうか、という結論にたどり着く。よって明日は図書館に行く予定。

朝から僕も飛ばしすぎて12時前に眠気に襲われる。

<読んだ本>
ひきつづき『知覚の現象学2』16〜20ページ
池波正太郎『日曜日のい万年筆』(新潮文庫)をパラパラと。「私の一日」、「私の仕事」というエッセイが興味深い。途中で猫に水でうすめたウイスキーを上げたり、水彩画を描いたり、いろんなことをしながら仕事を進めている。
「私の仕事」では、若い頃、旋盤工をしていたときのエピソードが語られている。

池正は指導員の水口伍長にこう言われる

「いいかい。何時間かかってもいいから、この図面を穴のあくほど見るんだ。そして、どこから先ず手をつけたらいいか、それをよく考えるんだ。手順が一つでも狂ったら品物はできないんだよ」(p.42)

愚直なまでにその言葉を信じて試行錯誤する池正。

そして半年ほど経ったある日。

或日。突然に、ぱっとわかった。
図面が読めるようになり、機械が手足のようにうごいてくれはじめた。
いま、小説を書いていて、出口のないトンネルのなかを手探りで苦しみながら歩いているうち、急に、遠い彼方の出口から外光がながれ込んでくるときのおもいと、まさに同質のものだった。

(中略)

私にとっては、躰の感覚だけが、たよりなのだ。
物をつくるという手順を、感覚で躰におぼえこませたことが、いまの私の仕事の基盤になっているのだ。(p.42-43)

自分にとって、今やっていることの基盤になるような経験とは何なのだろうか。あまりに深い記憶の底にあるために思い出せないことかもしれないし、もしかしたら、いつでも思い出しているくせに、それと気づいていないだけかもしれない。


<聴いた音楽>
ベートーヴェン交響曲第4番』(フルトヴェングラーベルリン・フィル、1943年)
ベートーヴェン交響曲第2番』(チェリビダッケミュンヘン・フィル、1996年)
ベートーヴェンピアノソナタ24番作品78』(グレン・グールド、1968年)
ベートーヴェンピアノソナタ29番“ハンマークラヴィーア”作品106』(グレン・グールド、1970年)