編集画面のリンク元のところにgoogle検索で「ゴルフ エンジンがかからない」でこのページにたどり着いた方がいたようだが、なんだか、ものすごくその人の気持ちがわかる。シチュエーションとか、そのときの心の振るえとか・・・。

今日はぼっちゃんの保育園では秋の遠足。しかも三つの保育園の合同遠足で、いつもお風呂で会う子達ともきっと会うはずだ。きのうお風呂でいつも会う方にもらった豆とぜんまいの煮物も弁当に入れて、レッツ・ゴーだ。

でも、お菓子や弁当、着替えなどを入れたら、先日無印良品で買った子供用リュック・サックもパンパン。大きいサイズのほうを買えば良かったかな?

きのう市内にいったとき、妻がたまたま大学時代の同級生と会ったらしいが、そちらの方も今日は子どもの幼稚園の遠足らしい。秋だなぁ。


くだらない感想。あくまでテレビの或るニュースを見た限りにおいて。
僕の住む県にある某国立大学(もちろん今は法人化されている。ちなみに母校。)に法科大学院が、数年前に鳴り物入りで登場した。受験者もすごい倍率だったらしく、おそらく、その厳しい倍率を潜り抜けた生徒たちも、きっと優秀な学生なのだろう。

しかし、肝心の司法試験合格率はサッパリ。もちろん目標の数字になんてぜんぜん届いていない。焦る大学側と学生たち。一次試験はまあけっこういいのだが、二次の論述試験みたいなものでガクンとダメになるらしい。

問題は様々なのだろうが、学生のインタビューが紹介されていて、その物言いにちょっとなぁ、と思った。
学生たちは「理論重視で、受験のノウハウ的な面が弱い」とか、「先生たちもバタバタと動揺していて、それが学生のほうにも伝わってくる」とか、とにかく、「大学側が頼りない」ということが言いたかったみたいだ。

でも、学生たちは一体何を期待しているのだろう?と思った。
先生と言ったってみんな研究者なのだから理論のほうが得意なのは当たり前で、そんな理論重視の人たちが急に実践的なことを教えろと(大学に)言われてやっているのだから、バタバタするのも当たり前なのだ。

もちろん、だから大学側に責任はないなんてことにはならないが、その学生たちの顔とか、話し振りがあまりにも他人事のように、批評家か何かのようで、ちょっと気持ちが暗くなった。

司法試験を受けるのは学生自身であって、どんなにいい先生が揃っていようが、どんなに良いシステムがあろうが、先生もシステムも学生の代りに試験を受けてくれはしない。

でも、法科大学院に在籍しているということは、そうした勉強に対する環境がある程度整備されているとか、きっと恩恵もたくさんあるにちがいない。そのなかで「ああ、うちの院は受験ノウハウとか、論述試験対策に弱いんだな」と開き直って、あとは自分で受験予備校に行ったり、いろいろと方向性をさぐるべきなのではなかったろうか。落ちてから「もっと大学側がしっかりしていれば」と言ってもはじまらない気がする。

昔、たまたたま帰りが一緒になった地下鉄の中で、研究室の先輩が、「でも、やっぱり自分で勉強するしかない」と僕に言ったことを思い出した。
先輩が言ったのはただその一言だったけど、先生や学校が何とかしてくれるなんて甘いこと考えるなよ、ということがその言葉のうちには含まれていたと思う。それは、ものすごく救いがない言葉のようにも思えるけど、ふとこの言葉を思い出すと、すくなくとも僕はすこし救われる気がする。

「先生は何もしてくれない」とか、「大学のシステムはダメだ」とか言うことは、もちろん程度にもよるだろうし、実際にそういう声を上げなければならないときもあるだろうけど、逆に自分を自分で追い込んでしまうことがある。それ自分を責める以上に、自分を損なうことである場合もある。


<買った本>
庄野潤三『山田さんの鈴虫』
ああ・・・やっぱりこれだよ・・・。もう完全に中毒。読んでいるとこのあいだ東京に行ったときに乗った小田急線が出てきて、どうもその沿線の辺りにお住まいのようだ。もしかしたら、あのとき同じ車両に一緒に乗っていたのかも・・・!

山田さんの鈴虫 (文春文庫)

山田さんの鈴虫 (文春文庫)

<読んだ本>
フッサールデカルト省察』(岩波文庫)序と第一省察、第二省察のはじめ(62ページまで)