今朝、ぼっちゃんにベビーカーで保育園に連れて行けと言われる。
車で10分ぐらいだが、たぶん、ベビーカーを押して歩いていくと1時間ぐらいかかると思う。途中、アップダウンも結構あるし。ある意味、一山超えるし。

強引に車のチャイルド・シートに載せると号泣するぼっちゃん。

今日は祭りのイベントでちんどん屋さんが保育園に来るので、9時までに行かなければならないのだ。保育園に着くと、他の園児達が「オッパッピーが来るの?」と言っていたが、たぶんオッパッピーは来ないと思う。

ちなみに、今日はハイハイ競争で、明日は赤ちゃん土俵入り。あれからもう一年も経ったのか。


昨夜、妻と「有閑倶楽部」のドラマを観る。かなり幻滅。途中で観るに耐えなくなってテレビを消してしまった。


な〜んか、イマイチだった。なぜ松竹梅 魅録がメインなんだろう。たしかに、もちろん、それはそれで悪くはないし、そういうアレンジもなくはないのだろうが、それにしても菊正宗がひどすぎる。あんなキャラじゃないだろう?妻が言っていたが、それらしくみえないのは、ドラマの登場人物たちの身長が原作の設定とあまりにも違うからではないだろうか。つまり、漫画原作に対して「リアル」ではないのだ。そう考えると、ドラマの「のだめ」はすごくよくできていたなぁと思う。

細かいところは脳内補正すればいい話なので、いっそ、俳優の実年齢とかを無視して、

菊正宗=中井貴一
松竹梅=佐藤浩
白鹿=緒川たまき
グランマニエ竹中直人

等々

といった布陣でいけば逆に良かったのではないだろうか。

<読んだ本>

木村敏『あいだ』(ちくま学芸文庫)読了。
ゲシュタルト・クライス、間主観性、共通感覚、ノエマノエシスの円環、メタ・ノエシス、病理としての分裂病ダブル・バインド

自己が主体として自己の生命を生きるということは、一方では生命一般の根拠の「おのずから」の動きに関わると同時に、他方では間主観的世界へと向かって、自己を非自己から区別しながら、自己と非自己との「あいだ」で「みずから」の交換不能な存在を維持するということである。(p.184)

「生命一般の根拠」という概念については、読んだ感想としては、深く言及はされないが、それは実体的に存在する物ではなく、まさに「あいだ」としての関係、「あいだ」を生む運動そのものと捉えられるのだろうか。
そうした「生命一般の根拠」へと関わることは、自己が自己ではなくなり、自己が生成する以前の非自己へと関わることでもある(より原始的な生命体モデル)。しかし、人間は社会的な存在として、他者と関わり、他者との間主観的な関係において(他者と私によって間主観的な関係が生じるのではなく、間主観性こそ「あいだ」として私と他者を生じさせるのである)、自己を自分とは他なる者・非自己から区別しなければならない。

生命の直接性との関わり、そして一方で他者・社会的環境への関わり。

この二重の課題それ自体が、すでにダブル・バインドの名に値するといえないだろうか。(p.189)

フッサールデカルト省察』(岩波文庫)66ページまで


村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』

走ることについて語るときに僕の語ること

走ることについて語るときに僕の語ること

夜中に読みふけってしまった。あやうく読み終わってしまうところだった。あぶない・・・。走ることについて書かれているからといって、いわゆる「健康本」ではない。小説について、創作について、そして、歳をとることについて、肉体が衰えることについてかなりストレートに書かれていて、引き込まれてしまう。