きょうは町をパレードが練り歩く予定。
ぼっちゃんの保育園もパレードに参加して踊ったりするのだが、チビッコ組のぼっちゃんはまだ参加できないので午後から家に強制送還の予定。

でも、たぶん、パレードの後を追いかけて町中を歩き回るだろう。ほぼ父の抱っこ移動で。

<読んだ本>
M.Heidegger“Zein und Zeid" を少し。危ない。すこしドイツ語勘が鈍ってる。
T・マン『魔の山』164ページまで。
野口晴哉『風邪の効用』をパラパラと。

村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』読了。
いままでの小説やエッセイ、HPによる読者とのメール交換をつぶさに読んできた者にとっては馴染みのあるエピソードや話も多いが、こうしてまとめて読むと、そうかそういうことだったんだと新しい発見もあった。

僕も思うのだが、走るとき、長大な本を読んでるとき、際限のない(ように見える)仕事にぶつかったとき、目を遠くにやり、その遥かに遠く、目的地の影も形も見えない延々と続く行程が自分の目の前に広がっているという現実を認めざるをえないとき、いささか途方にくれてしまうような気分になる。はたしてこの長大な過程において、この自分の小さな一歩がいったい何の意味を持つのか?すべてが無意味なのではないか?仮に目的地に達することができたとしよう。でも、その時には、もう何もかもが手遅れではないのか?

このような考え方が突然背中に負いかぶさってくるような瞬間が僕にはしょっちゅうある。そういうときは、とにかく次に出す一歩に意識を集中させる。自分たちのすむ世界とそうではない世界の境目がその踏み出した足のすぐ先にあるかのように。そして、どうやらそこが境界線ではないことはわかったが、どうやらその次の一歩の先がどうやらその境界線らしい・・・そんなつもりで、とにかく、ささやかだけれども小さな一歩(それがときには部屋の掃除だったりする)を積み重ねていくことに意識を集中させる。
もちろん、遠くを見通し、プランをたて、現実問題としての期日や、締め切りとの兼ね合いを考えることは避けられない。それが現実だから。

でもそれはわれわれに或る種の想像力を働かせる。想像力は諸刃の刃である。時に未来の展望をわれわれの前に開き、そして時には、或ることを想像したがために、その或ることにこの身を縛られてしまう。

そんなときは、動けなくなる前に、どんなにささやかなことであろうとも次の一歩を出すことそれ自体に集中する。そして、そういうとしか、この僕にはできない。