去年の学会発表で或る人に質問されたことが非常に重要なことのように思われて(そのときは口頭発表→質疑応答→40分喋りっぱなし→フラフラで、質問に答えるのにやっとで、そのことについてはそのままだった)、ハイデガー木村敏の『自己・あいだ・時間』(ちくま学芸文庫)を再読。

人間が人間であるということ、自己が自己自身であるということは、人間が歴史的存在であり、自己が時間的存在であるということを根拠にして可能となる。つまり、現在の自己の存在が、過去のすべての生活史の積分として、また次に来るべき未来への微分係数として、固有の歴史的・時間的な意味を持っているからこそ、自己固有の自己性も可能となるのである。

木村敏『自己・あいだ・時間』p.20

ただし、個々で問題となる時間性とは、時計時間や暦時間のような均質で客観的な時間ではない。

日常的理解における「経過する時間」のイメージとはおよそかけはなれたものであるために「時間」の名称が用いにくいにもかかわらず、人間存在にとってそもその時間といわれるような現象を可能にする根源的な根拠として、勝れた意味において「原時間」とでも呼ぶべきであるような時間である。

同書p.238

結果として自己の自己同一性と呼ばれるものを持つ自己がそこから生じるような、差異化としての自己としての時間。よくわからない。とりあえずメモ。


ぜんぜん専門外だけど、こういう臨床的なテーマのものを読んでいると、よく気分が悪くなる。いま自分にとって必要な気がするし、興味深い知見もたくさんあるのだが、なんか自分にとっては精神衛生上よくないみたいだ。なんというか、せつないというか、やるせない気分になるというか・・・。

特に、次の文章を読んだときは、両方とも身に覚えがありすぎてすこし凹んだ。

時間を川の流れにたとえるならば、分裂病者の焦燥感は流れに乗って急流を下る人が、水自体の速度を忘れていやがうえにも大きな速度を求めているのに似ており、メランコリー者の焦燥感は、流れに逆らって急流をさかのぼる人が力尽きて、水に押し流されながら必死にあがいているのに似ている。
治療的に前者に必要なことは、無理な努力をしなくても、自然に自分を目標点まで運んでくれる流れ自体の速度を認識させてやることであり、後者に必要なことは、かなりの後退はやむをえぬことと認めさせて、その間に再出発の気力を貯えさせることだろう。

同書p.218

なんだ気分が重くなってきたので写真。
或る朝、ふとみると悪だくみしてそうな2人。たまたま置いたときがそういう眼の向きだったのだが・・・。左側のひとがすこし歪んでいるのは、僕が温風ヒーターのまえに置きっぱなしにしたからです。ごめんなさい。