遠い太鼓ならぬ遠い雷鳴。冷ややかで、すこし湿った風。今日こそは夕立がやってくる。この数日で土も何もかも乾いてしまった。ドバシャーンといってください。

id:yurin1968さんから積木を頂いた。ありがとうございます。

ぼっちゃん大興奮。っていうか、大人も夢中だ。気がつくと夜中の10時ちかくになってたりする。

ぼくはどうしても古いタイプの人間なので、ネットにこうしてブログを書くことも、読むことも、所詮はヴァーチャルで閉じたものだと思ってたのだが、ときどき、いろんな方からコメントをもらったり、ついにはこうしてぼっちゃんにと積木を頂いたりとリアルな世界につながっていって、ほんとうに不思議だ。そういえば複数人で子育てブログにも参加することになった。

閉じる/開くという選択肢は―もしもそういう選択肢があればの話だが―ひょっとすると、自分自身には関係のないところで何ものかに選ばれているのかもしれない。「自分自身には関係のないところ」とは何処か、そこににいる「何ものか」とは何か、うまく説明はできないけれど。

自分自身で、理性的に判断し、選択できることなど、そしてそれが許される状況など、たかがしれている。

問題は、それが不可能なときに、いっそ判断も選択も自らに禁じたまま、どれだけその渦の中にで渦の流れに身をゆだねられるかどうかだ。

こうした決断の不在を「受身」だとか、「時間の無駄」だとか、そういうふうに断罪するのは浅薄だ。なぜなら、そのように断罪することができるのは、陸地のカフェで悠々とお茶でも飲んでいて、渦の中にすらいないの者だけだからだ。彼らは渦の中の無音と深さを知らない。

何をポエジーで内省的なこと書いてるんだ?中学生か、俺は?