朝方に肌寒さでふと目が覚めてフトンをかぶりなおす季節になった。いくら風呂あがりだからって、短パン・Tシャツのままでいたら寒くて思わずフトンにもぐりこみ、そのまま出られなくなってしまい、「なんて僕はバカだったんだ・・・くっくっく・・・(涙)」と『きかんしゃトーマス』の「穴に落ちたトーマス」というエピソードの中のセリフを寂しく呟く。

Geheimagentさんのこの記事シューマンの交響曲 - sekibang 1.0に激しく同感するほど、クラシック音楽が聴きたくなる季節が到来。

・・・なんてことは、ついこのあいだも書いた気がするが、そのときは涼しくなった後、リバウンドのような激しい残暑と雨がふり続ける蒸し暑さで再び熱帯化してしまったため、せっかくのブラームス気分も吹き飛んでしまったのだ。

それにしても、改めてシューマンを聴きなおすと、もっとあの暗くてジメジメした学生時代を過ごした下宿でもっと聴いていたら、この音楽がもっと深いところで血肉に染みこんでいたかもなぁ・・・と思う。そのころはひたすらブラームスの4番を聴き込んでいた。暗いことにはそれほど変わりないかもしれないが・・・・。

シューマン開眼は、22、23歳の頃、「カラヤンの50年代、60年代制覇」を目論んでその頃の録音を中古屋であさっていたとき、60年代にベルリンフィルと吹き込んだブラ1にカップリングとして収録されていた交響曲1番「春」を聴いたときだ。

このCDは長らく目的だったブラ1しか聴かず、四楽章まで終わったらそこでストップするか、一楽章からまた聴くかのどちらかだったが、ふと止めるのをわすれてすのままにしていたら、突然あの音楽が始まった。思わず本の頁を繰っていた手が止まった。
シューマンが「ブラームスの先生」や「クララの夫」という音楽史的な記述から離れて音楽家として眼の前に現われた気がした。

ちなみにシューマンの4番といえば、僕自身がどうしても古いタイプの人間なので、やはりフルトヴェングラーの録音でないとこちらの気合が入らない。

僕の持っているCDはマンフレッド序曲、交響曲4番、そしてハイドン交響曲88番という流れになっているが、マンフレッド序曲も青春の持つ暗さがムンムンしてて素晴らしい。