日記の上のところに子育てブログへのリンクを置いたり、アンテナのところに今までブラウザのブックマークに入れていたものを移したり、細々とマイナー変更を敢行。

きのうは、果てた。
風呂上りに梅酒のソーダ割りなんぞ飲んでしもうたら、イチコロだった。たぶんぼっちゃんよりも妻よりも先に意識がなくなったと思う。

昨日の午後は妻の職場のちょっとしたイベントで、ぼっちゃんと、別の職員さんちの子の二人の子守状態だった。子どもが二人になると単純計算の2倍ではなく、実際には2乗とか、3乗になってしまうので、ひさしぶりにきつかった。そういえばコーヒーを飲む暇もなかった。

最近、片手でぼっちゃん、もう一方の手で三輪車あるいはトーマスの乗り物を持って歩くというシチュエーションが多いのだが、最近、ぼっちゃんを抱っこしている腕がつらい。
自分が歳とって体力がなくなってきたこともあるのかもしれないが、以前よりも「持ちにくい」。たぶん、体重とかはそれほど変わっていないにしても、ぼっちゃんの足の長さや胴の長さのバランスが変わってきているのではないだろうか。それで、非常に持ちにくいというか、持っていると力の入れ具合が難しくて、変に疲れてしまうのではないだろうか。


妻に風呂からの帰り道、尋ねられた。

現象学とは何か?
一言で言うのは難しい。「事象そのものへ!」というフッサールの言葉を引いたとしても、何も語ったことにはならない。

逆に「現象学ではないもの」を挙げるとすれば、その一つは自然の数学化(数値化)という言葉で現わすことができるような科学主義的な思考である。ある科学法則なり自然法則からすべての現象を数値の代入とその結果から予見できるという考え方が、われわれの具体的な経験から遊離していくことは明らかである(かといって、現象学が反科学主義かというとそうではない。この点は重要である)。

自然はすべて数値化できるという考え方によれば、すべてなのだから、色も、暖かさ、冷たさも、明るさ、暗さ、音も数値化できるし、できなけらばならない。実際、「℃」とか「Hz」などで現されているし、そうした数値化なくては、今のわれわれの生活は成立しなかったし、人間の科学技術も発達しなかったであろう(現象学が単純な反科学主義でないのは、こうした人間理性の成果を簡単に破棄しないからである)。

しかし、そうした技術的方法論が高度化していくに連れて忘れ去られていくものがある。それは、自然科学がその端緒において自然との接触であったこと、先科学的な生活世界における、この生きた身体を基底とした感覚経験こそが科学の端緒であったということである(ここで「端緒」という言葉を使うことは誤解を招きそうだが、とりあえずはこう言っておく)。

科学的解釈によって記述された世界、あらゆる科学主義的世界観に先立ってすでにわれわれが生き、住みこんでいる世界における、生の経験を救い出すこと、「世界」への帰還こそが現象学の目的ということになるのだろうか。
ところで、そのような先科学的「世界」というものがそれ自体として存在していて、現象学的態度をつらぬけばいつかはそこに到達できるのだろうか。残念ながら到達できない。なぜならば、それ自体としての「世界」といった素朴なユートピアはもはや存在しないのからである。
では諦めるのか?しかし「諦めること」も世界へ到達できると「信じること」も、実は同じことの裏表でしかない。諦めるか信じるかはともかくとして、そのような世界が実在していることを認めてしまっているからだ。
では現象学に何ができるのか。それは、自らの「現象学的還元」を常に未完結なものとして不断に遂行していくことである。

長くなってきたので、いつになるかわからないけど、いつかへ続く。

(追記)
あとから読み返してみると、だいたいの哲学(場合によっては科学)はこういうことを言うのであって、その中で、だったら現象学の特色とは何かというと、なかなかうまく言えない。難しい。