念のため病院にいくと(はっきりとした診断があったほうがいいと保育園の先生に言われたので)、さすがに3歳で突発性発疹はないだろうとのこと。
ただ、熱が下がって赤い発疹がでることってよくある話なので、特に心配するほどのことはないということなので安心した。

そういうわけでほぼ一週間ぶりの保育園。久しぶりだったせか、今日一日中、なにかとグズリ気味だったらしが、帰ってきた様子をみるとずいぶんスッキリして、落ち着いた雰囲気。
夜もほとんど崩れ落ちるように、絵本を見る余裕なく眠りの中へ。やはり、外に出て他者と出会うことは大事だ。

今日も本(メルロ=ポンティの「人間と逆行性」という小論)を読んでいて、言語や歴史の話までは面白く読めていたのだが、そのあと政治の話が出てきたところでものすごい眠気の襲われる。
政治的センスの欠如とはこういうことだろうか?

昨夜、ある本のサブタイトル「他のように考え、そして生きるために」について、妻にどういうことなのかと聞かれた。この言葉自体はミシェル・フーコーの晩年の著作「性の歴史」の第3巻「快楽の活用」のなかの言葉で、フーコーの葬儀の際、ドゥルーズが悼辞として読んだ部分に出てくる。

どういうことか?
はっきりいって上手く説明できるとは思えないが、或る対象(それは具体的な或る個人でもいいし、小説や哲学的著作でもいい)を、自分自身の思考のフレームワーク(既存のフレームワーク)の中に還元するかたちで、つまり自己を保持したまま、自己にに同一化させる形で理解する場合、その対象はすでに自己の理解しうる領域に包摂されてしまうことで、もはや自己とは他なるものではなくなってしまう(しかし、われわれがものごとを認識するというのは、多かれ少なかれ、というよりは必然的に「この私の視点」から認識することでしかないのではないだろうかという問いが生じてくるが、それはとりあえず脇に置いておく)。
それは自分自身に対しても同様なことがいえる。自分自身の自己同一性を保つことは、既存のフレームワークの中に自らを還元してしまうことだ。では、自己が「自己である」と同時に、「他である」ということはどのようにして可能なのか?
作品はもちろんだが、フーコーの生涯や、彼のインタビューを目にする際、いつも感じるのはそうした「他であること」を捨象して「自己同一性」のうちに閉塞することへの容赦ない拒絶であり、また、そうした自己同一的なものを要求する者たち(誰?)への強い苛立ちである。
そう考えれば、彼が同性愛者であることを事実上認めながら、「カミング・アウト」することそれ自体を頑なに拒絶したことも、「カミング・アウトした者」として自己同一性を保持してしまうことへの拒絶を意味しているのかもしれない。どのような自己同一性からも逃れ、他であること。どのような名も、それは「私」の名ではない。(しかし、いわゆる「自分探し」のごときものとは違う。ベクトルは全く逆で、自分を探すのではなく、自分を消し去るのだ。「自分探し」者は何処かに必ず確固とした「自分」が存在するということを前提としており、またその前提が彼らの自己同一性を確証している。フーコーはどのような自己同一性も拒否するだろう。たぶん。)


グレン・グールドが秋の曲と呼んで好んだというベートーヴェンピアノソナタ28番op.101を繰り返し聴く。