朝から妻が市内まで出張と言うことで、ぼっちゃんを保育園に送っていったあと、集合場所(上司・・・というか世話役のひとの車で一緒に行くのだ)に妻を送っていく。
晴れ間が出てきたので急いで洗濯して、外に干していたら雨が降り出した。
ぼっちゃんの七五三のとき、みんなで一緒に食事をする店を予約。ちょうど個室が空いていたので助かった。あとは、注文している七五三用のスーツ(もちろんぼっちゃん用)が間に合うかどうかが非常に重要な問題だ。

どうも政治論に弱いのは世界史的素養があまりに弱いからではないか、と前々から思っていて、奮起して世界史の、特に近代史を復習。というか、高校では日本史の授業しかなかった(日本以外の国の歴史は中国の魏・呉・蜀の三国時代ぐらいしか知らない)ので、ほんとうに世界史は弱い。
特にマルクス主義論争なんかになると、スターリンとか、ルカーチだとか、とにかくいろんな人がでてくるのだけれど、で、結局何なのだろう?
逆に(何が逆なのだ?)アルチュセールなんかの言っていることは、なんとなくピンとくると言うか、『マルクスのために』(むかしは『蘇るマルクス』という邦題で、略して『よみマル』と呼ばれていた)はフムフムという感じで読めた。でもそうなると世界史という話ではなくなってくる。

引き続き(?)フーコー関連の本を読む。
フーコーがスキンヘッドになったのはチュニジアにいた時期らしい。

丹生谷貴志の『ドゥルーズ・映画・フーコー』は、まだサラリーマンをしていた頃、自分は休みだけど妻(そのころはまだ結婚してなかったが)は仕事でといったぐあいに、一人で休日を過ごさなければならないとき、大学の図書館に持ち込んで、四人がけのだだっ広いひにゃりとしたテーブルに座って一人で、あるいは図書館の前庭の木陰でよく読んでいた本。久しぶりに手にして、あのころの気持ちや情景が思いがけず蘇った。
あまりに影響を受けすぎて、しばらく封印していたのだけれど、ひさしぶりに読んでみると、やはりこの本(そしてこの本の著者)からそうとう影響を受けているなと思った。

ドゥルーズ・映画・フーコー

ドゥルーズ・映画・フーコー

三島由紀夫とフーコー“不在”の思考

三島由紀夫とフーコー“不在”の思考

同じ著者のもので『三島由紀夫フーコー』という本もあるが、この本よりも『ドゥルーズ・映画・フーコー』のほうが鮮烈だ。ちなみに今書店に並んでいるヴァージョンは新版で、僕が持っているヴァージョンにはない文章が加えれられている。どうせなら文庫にしてもらいたいが・・・。