ぼっちゃんと妻を見送ったあと、家の前の道を今日もほうきで掃く。きのうも同じことをやって、そのことをここに書こうとしたら、「はわく」が変換されないので変だなーと思いつつ、ひらがなで表記してそのままにしていたら、後で妻から「はわく」は九州弁だと教えてもらった。なるほど。そういうことか。ほうきではわく、ではなく、ほうきではく、だな。

そのあと、家の中もほうきで掃いて、掃除機をかける。途中で吉野朔美の「グールドを聴きながら」が出てきて、こんなことしてる場合じゃないと思いながらも読み出して、まあ、でも短編だからいいかと思って最後まで読んでしまう。最初読んだときはグールドは単なる小道具というか、別にグールドじゃなくてもいいんじゃないかと思ったが、大人びた立花に対してまだ子ども的な世界に留まっている主人公の真央子の対比とか、成熟することへの憧れとか恐れとか飛躍とか、やはりここはグールドでなくてはならないなと気持ちを新たにした。グールドの演奏に対して、ときに、うーん、どうなんだろう、よくわからんと思うところは、どこか成熟や大人になりきることへの拒否にともなう閉塞感だったりするが、同時にそれは、まさしくわれわれがグールドの演奏にどうしても惹かれてしまう理由の裏側である気もして、なかなか上手く言えない。
フトンも干す。昨日も干したが、実は二日連続でぼっちゃんはおねしょ。確かに、寒い夜中にフトンをゴソゴソ出ていって、「う〜さぶ〜」とか言いながら用を足すより、フトンのなかでホカホカしながら用を足すほうが気持ちいいに決まっている。しかし、干した直後に雨が降り出し、シーツも洗濯中なのにどうしようかと途方に暮れていたら、雲がどんどん流れてゆき、いつの間にか雲ひとつ無い晴天。いさんでフトンと、シーツを干す。

フトンを干す頃、なんか曇っているなーと思って、雨が降り出したらすぐわかるように網戸を開けて、ガラス窓越しに直接外が見える状態にした。しかし、前から気になっていたのだが、ガラスが酷く汚れていて、やっぱり小雨なんかだったら見逃しそう。そこで、以前何かで読んだ「新聞紙窓拭き」をやってみる。どうやら、新聞紙のインク成分の油分が汚れを吸着するとかなんとかで、きれいになるらしい。半信半疑で新聞紙をぬるま湯につけ、かた絞り、窓を拭く。そのあと、別の新聞紙でカラ拭き・・・・ああっ!ほんとにきれいになった!
うちは新聞をとっていないので、コンスタントにこの方法が取れるかということに関しては甚だ不安が残るが、先日長崎から遊びに来た友人夫婦のダンナが残していってくれた「強すぎる!!虎を捕らえた!!原巨人首位」と書かれたスポーツ新聞を捨てずに取っといてほんとうによかった。

窓ガラスがきれいになったのはよかったが、きれいになりすぎてちょっと落ち着かない。