はてなには「下書き」機能というものがあって、よく使うのだけれど、でも、やっぱり「下書き」は「下書き」というか、ある程度書いて保存して、後日それを読んでももうすでに「手が離れた」というか、書いているときと読んでいるときの自分が違う人間というか、ピンとこないことが多い。たぶん「下書き」とかなんとか能書きをぬかす暇があったらズドーンドカーンと公開すればよかったのだ。

というわけで、今読むとやっぱりピンとこないのだが、下書きのままで終わらせるのもかわいそうなのでアップロード供養。

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「永遠の責任において神の前に立つ宗教的個体という単独化」(キルケゴール『現代の批判』より)

単独者であるとはどのようなことを意味しているのか。セーレン・キルケゴール(1813-1855)*1自身の生涯を多少紐解けばそれがどれほどの茨の道であるかと言うことがわかるであろうが、ここで詳述する余裕はない。ただかいつまんでいくつかあげるとすれば、父との確執。その父の秘密と罪。婚約者との婚約解消。さまざまなペンネームを駆使して執拗に繰り返したキリスト教批判(にもかかわらず、このキルケゴールという単独者は宗教的個体であることへと命がけの跳躍を試みたのだ)。そして世間から軽蔑や罵声を浴びながら、ある日路上で昏倒。そして死。野垂れ死にと言われてもしかたないかもしれない。

ただキリスト教を批判したことをもって彼を無神論者と断することは軽率過ぎるだろう。亡き父に捧げた多くの宗教講話を残しているが、それよりも、彼が批判したのはあくまで外面的かつ権威的・世俗的なものとして堕落した「キリスト教会」であり、神そのもの、イエス=キリストそのひとではなかった。むしろ世俗的教会という制度的媒体を無化し、乗り越え、神そのもに対して、一人の存在者として対峙すること。これこそが彼のモチーフの全てであった。

そして、その「単独者」は、存在する(実存する)というそのこと、まさにそのことをもって、なんにもまして負債を、「永遠の責任」を負う。
誰に対して?もちろん、ほかならぬ神に対して。もしそれを「負債」というならば、われわれは神にどのような負い目を持っているのか?われわれは神とどのような取引をしたというのか?なるほど、それをそこに負債があるというのなら、われわれは神と何がしかの取り引きをしたかのようである。例えば、死後の安楽・・・?
しかし、そうではないだろう。取り引きなど存在しない。そもそも、われわれと神は取り引きをすることもできない。しかし、にもかかわらず、われわれは負債を、「永遠の責任」を負う。これはどのような取り引きにも関係性にも先行する「根源的な負債」、それによってはじめて日常的な意味での「負債」や「取り引き」という言葉が意味をもちうるような、源的風景である。生きていること―ただそのことが、そしてそのただ一つのことのために、われわれは負債と責任を負う。

キルケゴールの著作を紐解く者は、すくなからずそこに「原罪」への恐れとおののきを感じ取るであろう。こうした問題意識は、彼と父との関係が大きな影と共に影響を及ぼしているであろうが、やはり伝記的な事柄を詳述する余裕はない。

*1:本場のデンマーク語の発音だとセアンとか、セオアンとかキェルケゴールとかそういう感じになるみたいだけど、日本ではこういう読み方が通例になっている。ちなみに論者によってはゼーレンと表記される場合もあるが、細かい話はどうでもいい。