■
年の暮れが近いというのに、そんなことも忘れてしまいそうな陽気。
今日はぼっちゃんのひいばあちゃん(妻の祖母)がグループホームからちょっと遊びに来てくれた。妻の実家の近くのグループホームを下見に来たのだ。いい感じだったら移ることになるとのことだったが、トントン拍子に話が進んで、今日のうちに移転決定。
いまいるグループホームは、「責任がもてないから」という理由で漬物やお菓子などの食べ物の持ち込みも不可。洗濯物管理ができないという理由で、もって来る洋服も最小限にされる。本音としてはずっとジャージでも着てくれてればいいと思っているのだろう。お風呂のあとは、どんなにまだ日が高い時間であってもパジャマ着用が原則。「パジャマのほうがくつろげるでしょう?」というのがグループホーム側の言い分だが、なにが本人にとってのくつろぎになるかは、本人が決めることだと思うのだが。
ひいばあちゃんが来ると「ばばちゃん!見ててね!」とオモチャの刀を振り回して大見得を切ったり、高いところに登ったり、じいちゃんお手製の紙人形で劇を一幕ぶってみたり・・・。いったい誰に似たんだろう?
いま読んでいる本
分析のとりあえずの成果として示すことができるのは、人間的な個体が「ペルソナ」という存在の仕方を有する個体であり、本質的に共に在る世界に由来する一定の「役割」をおびて現実存在しているということである。・・・いいかえれば、総じて根本的には、対応する他者たちによってじぶん自身として現実存在するということだ。形式的に定式化するなら、〈きみ〉にとっての〈私〉として、つまり可能的な二人称に対する「一人称」である個体として、したがって共に在る人間として―この原理的な「役割」によって―規定されていることになる。
- 作者: レーヴィット,熊野純彦
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2008/10/16
- メディア: 文庫
- 購入: 2人 クリック: 26回
- この商品を含むブログ (33件) を見る
(p.18-17)
主体(「私」)の成立を対-他的な関係の中からその関係の結び目として生まれてくるという発想は、たしかにデカルト的なコギトという無時間的モデルとしての理念的な「私」という形而上学的理念モデルへのきわめて有効な批判モデルとなるが、あまりに他者や、他者との関係やその関係における役割といったことに重点を置きすぎることは、デカルト的モデルを転倒させただけで、結局のところ「われ思う」の代わりに「他者」を「我」の原因にすることで、陰画的にデカルト的図式を温存してしまうことになる。個人的に、いまのところ、デリダやレヴィナス的な「他者論」に多少食傷気味になっているのかもしれない。とにかく「他者か我か」という二元論からスタコラサッサと逃げ続けるしかない。