毎回、天気のことから書き出すのがいかにも日記らしいが、今日は雨の音で目が覚めたぐらいの土砂降り。
一日中、部屋にこちこまって本を読んでいた。今日は天気はあいにくだったけど、暖かくて暖房もいらなかった。足元のセラミック・ヒーターとひざ掛け毛布だけでもじゅうぶんなぐらいだった。

プチ一人暮らしが始まった頃、コーヒーに関しては貰い物のインスタント・コーヒーか、スーパーの安売りコーヒー粉(400グラムで398円)を飲んでいたが、さすがに美味しいものが飲みたくなった。なんだか、今まで飲んでいたスーパーのコーヒーが、このところ急激に美味しくなくなって、気持ち悪くなって胃が痛くなったりした。
街に住んでたらスターバックスドトールで豆を挽いてもらって・・・ということになるのだが、あいにく町にはスタバもドトもない。ちなみにエクセリシオール・カフェがドトのスタバ追撃部門であることも最近知った。ただし、この情報はガセかもしれない。
ふと、或る自然食品を扱う店がフェアトレードとかスペシァリテの珈琲豆も扱っていたことを思い出した。しかも、そこのうちの子とぼっちゃんは保育園が同じだ。それはあまり関係なかったが、とにかくこの店のおかげで久しぶりにまともなコーヒーを飲むことができた。もちろん、スーパーのコーヒーもそれなりに美味しかったけど・・・。

今日買ったコーヒーについては、お店で挽いてもらったのだが、きわめて偏狭な個人的意見を言わせてもらうと、もっと細かく挽いてもらってもよかったかな?という感じ。もちろん、ぜんぜんわるくないのだけれど、どれぐらいの細かさで挽くかでお湯を入れるタイミングとか量とか、すごく変わってくる。
粒子が粗いとお湯がサッと通り抜けてしまって何だか薄いコーヒーのなってしまう離、逆に細かすぎると、いろいろな成分が出すぎてどうも重いコーヒーになってしまう。

夜、黒澤明の『生きる』があっていたので観た。解説とかあらすじとか読むと、すごく「いい話」映画っぽいが、改めて見て、恐ろしい映画だった。繰り返すが、あらすじだけ読むとヒューマンな映画で、そういう見方に関してはそれはそれでいい。病気を知った志村喬を享楽街へ誘う男の虚無的な不気味さ、そこで繰り広げられる酒と歌と女の世界のグロテスクさ、その華やかさが一気に瓦解して「死」が顔をもたげてくるような別次元のグロテスクさ(これは別にグロテスクでも何でもなく、生とは、そもそもそういうものなのかもしれない)、役所というシステムに飲まれていく人間のその醜さが突然あらわになる瞬間がこれでもかとばかりに鮮明に描かれている。このあたりの描き方は、その救いのなさも含めて、甘いところがない。

あと、自分にとっての謎のシーンなのだが、公園を作ろうと頑張る志村喬をヤクザが脅す(しかも役所の中、重役の部屋の前で)シーンで、チンピラ子分が「死にてぇのか、コラ!」と脅すもまったく動じない志村喬の前に、兄貴分らしき男が出てくる。兄貴分らしき男は志村喬の顔を少しの間見つめると、何も言わずその場を立ち去る。男は志村喬に何を見たのだろうか?「男の決意」とか、そんな安っぽいものではたぶんないだろう。