ぼっちゃんが久しぶりにおねしょ。

ウニャ子はすでに4キロ越え。生まれたばかりのときに余っていた皮にどんどん中身が詰まっていく感じだ。

頭が疲れたけど、赤ちゃん抱っこしたままだけど、なんか読みたいと思って村上朝日堂シリーズをパラパラとめくる。やはり初期の「村上朝日堂」や「〜の逆襲」のあたりが、くだらなくて面白い。

このシリーズはもっとほかにどんなものがあったかしら(吉田秀和風)と思って押入れをみると、「村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた」(文庫は平成11年)をみつけた。
みつけかたをみつけた・・・。オヤジギャグにすらならなっていない。ぱらぱらとめくっていると、こんな文章が目に入った。

僕は学校を出て以来どこの組織にも属することなくひとりでこつこつ生きてきたわけだけれど、その二十年ちょっとのあいだに身をもって学んだ事実がひとつだけある。それは「個人と組織が喧嘩したら、まず間違いなく組織の方が勝つ」ということだ。(中略)たしかに一時的には個人が組織に対して勝利を収めたように見えることもある。しかし、長いスパンをとってみれば、必ず最後には組織が勝利を収めている。ときどきふと「一人で生きていくというのは、どうせ負けるための過程に過ぎないのではないか」と思うこともある。でも、それでもやはり「いやはや疲れるなあ」と思いながらも、孤軍奮闘していかなくてはならない。何故なら、個人が個人として生きていくこと、そしてその存在基盤を世界に指し示すこと、それが小説を書くことの意味だと僕は思っているからだ。(p.71-74)

はじめて読んだ当時は作家という、いわば自営業者の心構えとかそんなことを言っているのかなぐらいにしか思っていなかったが、今度のイスラエル賞のスピーチを読んだ後にこの箇所を読むと、村上朝日堂とはいえなかなか含蓄の深いことだったが買いてあったのかもな、と思う。

個人対組織。個人は必敗的存在であり、生き残るのは組織である。雑なイメージだと、普通の市民と役所の役人ではいつも役人は冷徹なマシーンとして存在し、一般の市民のほうが我慢を強いられ損をするという図が思い浮かぶが、それはまったく表層的なものにすぎない。組織は、一般市民も、役人も、すべての個人を蝕み、食い尽くそうとする。組織は組織それ自身の自己保存をその目的とする。組織が存在し、そして存続すること。ただそれだけが組織の目的であり、この目的と組織そのものがまったく一つになる。

しかし、それでも「個人が個人として生きていくこと、そしてその存在基盤を世界に指し示すこと」を村上は目指す。それこそが、彼の、そして小説家の存在意義だからだ。


CBCのアーカイヴからCD化されたグールドが若い頃の録音(6枚組)。特にバッハを聴く。ずっと以前に、まだ一枚組みだったときに買ったもののほうがもっと盛大にノイズが入っていた気がするが、音質向上ということか。あれはあれで好きだ。


メルロ=ポンティの「ヘーゲル実存主義」。キルケゴールらが抵抗したヘーゲルは大家としてのヘーゲル、国家哲学としてのヘーゲル哲学であり、むしろ「精神現象学」のヘーゲルは世界に開かれた存在者、実存としての存在者を描いているというメルロ=ポンティの指摘はアルチュセールを思い出させる。ただ、アルチュセールの場合、マルクスが本当のマルクスのなったのは逆に、若い頃の「経済学・哲学草稿」のときではなく後年の「資本論」のときなのだが。