今朝、窓を開けると雪。
この季節、日に日に暖かくなってきて、お、春も近いかなと思っていると、「そうはさせるか!」とばかりに雪が降る。毎年のことだ。ある年は3月31日に降った。それにしても空気までぴしーんと冷たい。

先日、風呂場の脱衣所で、ぼっちゃんが床の上に虫を見つけた。ものすごく小さい虫で、かすかに動いているから虫だとわかるが、ほとんど埃の塊にみえるぐらいの小さな虫だった。
ぼっちゃんが僕に尋ねる。「ねえ、どうして動くの?」
どうして動くのか?それはどのような仕方で動くのかという、すなわちHOWの問いだろうか?それとも、なぜ、どんな理由で動くのかというWHYの問いだろうか?
前者の問いなら、幾分は簡単だ、複数ある足の或る足で体重を支え、その隙に別の足を前に出すことで(そして脚部を構成する関節を曲げ伸ばしすることで)、前進することも出来るし、方向を変えることもできる。
だが、後者の問いだとしたらどうだろう。なぜ、どんな理由で動くのか。大人は「位置を移動するため」とか「食物を獲得するため」とか「住居を作るため」とか、なるほどもっともらしいことを答えるかもしれない。しかし、ではなぜ生物は移動し、食べ、住むのか?大人は答える。生きるため、生き延びるためだ、と。では、なぜ生きるのか?生きていることの理由は?そもそも生きることに理由や目的はあるのか?生きることそのものが理由であり目的だろうか?それとも、生きることを外部から規定する理由や目的があるのだろうか?もし、外部から規定しなければならないとしたら、それはそのまま生きていることそれ自体には理由も目的も意味も無いことを証明することになる。
なぜ、生物は生きるのか?

あるがままの生存は、意味も目標もなく、しかもそれでいて不可避的に回帰しつつ、無に終わることもない。すなわち、「永遠回帰」。
これが、ニヒリズムの極限的形式である。すなわち、無が(「無意味なもの」が)永遠に! (ニーチェ力への意志』55)

・・・というようなことを考えていたら、ぼっちゃんはもうスッポンポンになって入浴態勢フルスロットル。大人だけがパンツ一丁で脱衣所に立ちすくんでいた。フリチンのほうがまだましだ。

火の鳥」読み直して勉強します。
火の鳥(1) (手塚治虫漫画全集)