もうおとといのことだが、たぶんおそらく今年最後の夜市。ほとんど組内だけのこじんまりとした夜市で、こどものための輪投げ大会、100円ショップで買った景品がならぶビンゴゲーム、花火(打ち上げじゃなくて手にもつほう)・・・夏の終りを感じるどころか、改めて夏の終りを実感するような夜市だった。

すでに肌寒い。ビーチサンダルで行った上に、生ビールを飲んだ僕はすっかり身体が冷えてしまった。帰る頃には吐いた息が白かった。

問題は、とビールですっかり冷えた体と頭で考えた。自身の暴力性にどれだけ自覚的でいられるかということなのかもしれない。正義。暴力。よくわからない。でも昔の偉い人は言った。正義の旗の下でこそ多くの血が流れ、数え切れない残虐が生まれた。

久しぶりにグールドを聴いた。そういえば研究室の合宿のとき、何人かがグールドはいい、と言っていたことを思い出した。その何日か前にグールドのテレビがあったらしい。

確かにグールドは素晴らしい。でも、ときどき、このひとは結局のところ成熟するということがなかったのではないか、と思った。彼の録音にふと感じる息苦しさ、こちらの腰が落ち着かない感じはそのあたりからくるのかもしれない。
55年のデビューアルバムに見られる恐れ知らずのデモーニッシュな若さと、時間の経過と共にグールドでも決して避けられない身体的な「老い」とのあいだの見えない戦い。
そのあたりの「折り合い」というものが感じられない不思議な危うさを感じているのだろうか。

もちろん、そのことは反転してそのままグールドの美点そのものでもあるのだが。

ケンプのバッハ編曲集を聴きながらそんなことを思う。もしグールドがケンプぐらいの歳まで生きていたら、どんな音を弾いていたのだろうか。

バッハ名演集

バッハ名演集

ケンプのピアノって味があるよね・・・ってセリフ、すごく年寄りっぽいと思っていたが、そんなケンプのピアノがいいなぁと思うようになったということは、僕もそれなりに歳をとったということだろうか。成熟したかどうかはまた別問題だけど。

ちなみに僕が持っているCDはHMVで通販した輸入版でアマゾンにはないみたいだけど、「主よ人の望みの喜びよ」や『惑星ソラリス』で流れる「我汝の名を呼ぶイエスキリスト」などのカンタータ編曲ものも入っている。