非常勤も2回目が先週終了。
昨年のメンバーが卒業した人や留学中の人を除いてみんなまた来てくれたのがうれしい。今回は他学科からも数名新たにやってきてくれて、もともと小さい演習室はほぼ満員。10人超の人数とはいえ、この種の授業にしてはまさに満員御礼である。

いきなりハイデガーの『存在と時間』について講義をはじめ、なんだかひとりで飛ばしすぎた気がする・・・。この毎回終わったときに反省モードになる感じ、まさに去年と同じだ。人間的にはやはり成長していない。

もうすこし、本題に入る前に「なぜそういう問題設定が必要となるか」という点を、哲学史的におさえておく必要があるかもしれない。去年出ていた人にとっては同じ話の繰り返しに聞こえるかもしれないが、その点は申し訳ない。

なんとなく納得がいかないというか、すっきりしないことが一つあるのだが、それは、他の講義を受け持っている或る非常勤の先生のシラバスが、去年の僕のシラバスのほとんど丸写しだということだ。固有名などは微妙に削ったりしているけれども、授業の進め方や教科書についてなどはほとんど丸写しだ。

べつにそのことでとやかく言うつもりは無い。たぶん本人は丸写ししているという自覚すらないだろう。参考にした、程度に思っているだろうが、はじめて見たときは去年のデータが間違って出ているのかと思った。

ほかの人はともかく、シラバスを作るという行為は、少なくとも自分にとってはいろいろと妄想が広がったり、いま自分が何を考えたいかということをあらためて吟味したりと、とても楽しい行為ではあるのだ。

去年のシラバスは、今読み返してみると、「当時はこういうことを考えていて、それはもちろん大事なことなのだろうが、もう今の自分にとっては旬がすぎた。たぶん、同じ授業はできないし、やりたくない」という感想を抱く。もちろん書いた当時はそれはそれで精一杯で、そこに書かれたものは嘘偽りのない、僕の授業でやりたいことだったわけだが。

昨年の非常勤が無事終わり、至らない点もあったけれども、そのシラバスに関しては「成仏してもらった」と思っていたところに、その自分のシラバスが他人の手によってゾンビのように再び現れていたことに、多少ともショックを受けたのかもしれない。

おそらく、このことに気づいているのはこの世界中に僕一人だろう。そして、それについてとやかく言うつもりはないが、なんというか、「もったいないな」と思う。

すくなくとも僕にとってシラバスを考えるという行為は、授業を受け持つ責任の大きさの前に緊張しつつ、でも、自分がやりたいと思っていることと自分ができることのバランスをにらみながら、そこにまだ見ぬ学生たちの姿を夢想しながら、「こういう話をすると面白いんじゃないか」「こういう角度から入っていくと食らいついてくるんじゃないか」といろいろ創造が膨らみ、大変だけれどもこれまでに経験したすべてのことのなかでも上位に入るぐらい楽しいものだったからだ。せっかくこんな(大変だけど)楽しいプロセスがあるのに、それを他人のコピペで済ましてしまうなんて本当にもったいないなと思う。

まぁ、しかし、シラバスがどうこうなんてどうでもよくて、要はしっかりした授業ができるかどうかが問題なのだ。シラバスは丸写しでも、授業は僕よりもわかりやすくてしっかりしたものだという可能性もじゅうぶんにあるのだから。