きのうは午前中から庭の手入れをし、妻のほうは子供たちの服の衣替え。「いったい何人子供がいるんだ!?」という量に唖然。子供二人でこうなのだから、一家十人(父・母・男子4人女子4人)なんてうちはどうなるのだろう?

昼食はラーメンとホルモン定食を例の店に食べに行く。「れい」とタイプして「霊」が一番最初に変換候補としてあがってくるのは、最近デカルトの方法的懐疑についてのプリントを作っているときに「悪しき霊」という単語を何度もタイプしたからだと思う。デカルトによれば、数学的認識も幾何学的認識も疑わしい。なぜなら、それが正しいと「欺く神」もしくは「悪しき霊」がわれわれを思い込ませているだけかもしれないからだ。

昼食後、妻の知り合いの喫茶店へ雑貨を見に行く。そこで「クウネル」的な人たちの生態についてや、あの店この店のの裏側について聞く。恐ろしくてここには書けない。

それはともかく、「クウネル」や「自然生活」といった本に出てくるライフスタイルを信奉する人たちの「麻や木綿もさらっとした質感の服」「首には素朴でナチュラルな素材スカーフ巻き」「シンプルなシャツと思えても実はこだわりシャツで実は20,000円ぐらいする」「靴もナイキやコンバースではないシンプルで白いもしくは生成りのスニーカー」「なぜか一眼レフ率高し」といったスタイルの固定化と体系化はもはや伝統芸能的だ。やはり思想が内面化されるためにはこうしたある種の「装置」がひつようなのだろうか。むしろ逆に、内面的思想が(もしそういうものがあるとすれば)そのようなスタイルを要求するのだろうか。あと、「男子は眼鏡+ハンチング帽率高し」という話には笑ってしまった。

おそらく、もともとはクウネル的なものとは、大量生産品よりも手作りのものとか、自然との共生とか、穏やかな生活とか、反資本主義的な生活のアイデアを提供するものだったかもしれないが、こうした流れは意外とというか、当然というか、コミュニティ主義、共同体主義にいきつきやすい。こういう人たちは自然や遠くの他者には優しいが、マックでハッピーセットを買う隣人に大しては厳しいというか、むしろ憐憫すら感じているのだろう。

いつかそういう人たちの集まりに全身ユニクロで突撃したい。

最近アンプの調子が悪い。左側から音が出なくなるときがある。しかしアマゾンで安いアンプを探していたら直った。

Gustav Mahler: Symphony, No. 4

Gustav Mahler: Symphony, No. 4

最近買ったCDではかなりのヒット。古楽器によるマーラー。深刻で暗いマーラーが好きなので4番ってあまり興味がなかったのだけれど、演奏も各レイヤーがすけて見えるようなクリアさで、こういう解析的・分析的なマーラーがいつのまにか好きになっていたりする。