ふとおもいたって、ユニクロヒートテックを買いに行ってきた。ズボンの下に履くヒートテックタイツ。いわゆる「ズボン下」(これは共通語なのだろうか?)というやつだ。
なんとなく、「ズボン下を履いたら負けだと思っている」的ないわゆる中二病的こだわりのためにいままで一度もこういうタイツ系のものは身に着けたことがなかったが、急に「そういうこだわり、もういいや」的なお告げが降りてきて、朝からユニクロに向かったというわけだ。
サイズはSでちょうど良かった。そして着心地が良いし、寒さがぜんぜん違う・・・。なんでもっとはやく手に入れなかったんだろう。これで夜間の論文執筆が捗りそう。たぶん。

それにしても、これまでの人生においては「タイトなものを着る」ということを切実に忌避してきた期間というものがかなり長くあった気がする。ジーンズは必ず太目のストレート、またはバギー、サイズ的にSでも余裕を考えてMにしたり・・・。「全身タイツ」など考えただけで恐ろしい。
しかし、最近はそうでもなくなった。理由は単に保温性というものを考えたら、タイトなほうが皮膚と素材が密着してスースーしなくていいからというだけかもしれない。あるいは「今はそういうジャストサイズでぴったり着る」という流れがあって、その流れにのっているだけかもしれない。うちの親がそういうぴったりした着方が好きじゃなかったから、子どもである自分たちもそういう着方をいままでしてこなかっただけかもしれない。単に自分の身体へのコンプレックス−身体のラインがでるのは嫌だ―の故だったのかもしれない。
もし理由が上記のものだとすれば、答えは簡単である。「オッサンになっていろんなことがかなりどうでもよくなった」というだけの話である。だが、もっと身体感覚的な理由がある気もする。
鷲田清一が『モードの迷宮』で<わたし>の境界、<わたし>の臨界点ということで次のように言っていた。

モードの視線は身体/衣服の境界を跨ぎ越すということ述べたときにも少し触れたことだが、<わたし>の外縁、つまりわたしとわたしでないものとの仕切りは、通常考えられているよりもはるかに脆くあやふやなものであり、ひとはこの不安から逃れようと、「境界の意識を高めるためのさまざまな儀式」を編みだしてきた、とフィッシャーは言う。皮膚を焼いたり、熱いシャワーを浴びたり、冷たい水のなかを泳いだり・・・こうしてひとは自分のフィジカルな輪郭を顕在化させる。自分の「内部」を感じることができるようになる。(鷲田清一『モードの体系』ちくま学芸文庫、1996、pp.69-70)

モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)

モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)

そう考えるならば別にタイトなサイズの服を着ることに限定する必要もない気がするが、最近になってタイトなサイズも着ることができるようになったのは、自分の輪郭というか、自分の「内部」をいままで以上に確認(確保)しておきたいという欲求があるからかもしれない。もちろんそうした欲求は常にあったのであろうが、この歳になって改めて顕在化してきているのかもしれない・・・と、そこまでおおげさな話をするほどでもないか。とにかく、ヒートテックは暖かくていいですよ、ということが言いたかったのだ。

ユニクロの帰り、立ち寄ったブックオフの100円コーナーで岩波文庫漱石をゲット。
「私の個人主義」とか日記や所感など、文明論っぽいものを集めたものらしいが、これぐらいアバウトなアンソロジーだと、パッと開いたところならどこからでも読めて楽しいかも。

漱石文明論集 (岩波文庫)

漱石文明論集 (岩波文庫)