長女ウニャ子は数日前から夜中などに咳が出て、風邪気味か?と思っていたらおとといの夕方、保育園で熱を測ったら38度。しかし、本人はグッタリするでもなく、なんだか元気。夜中も急に眼を覚ましてお母さんに絵本を読むようせがんだり、ピザパンを食べたり、妙にハイテンション。でも、高熱のためかこころなしか絵本を差し出す手がプルプル震えている・・・。体は高熱でも心はハイテンション。幼児の心身二元論といったところか。

昨日は朝から38度だったため保育園は休み。病院へ。咳と高熱ということでインフルエンザ検査するも陰性。家に帰って薬を飲み、録りだめしてあった大好きな「スイートプリキュア!」や「けいおん!」をダラダラみながらりんごやチョコレートを食べるウニャ子。熱は少し下がってあいかわらず元気。

夜中になるとやはり熱が上がるのか、大きな寝言を言ったり、泣いたり、暴れたり・・・。ちょっときつそう。しかし朝になるとまたケロッとしている。今日も念のため保育園は休み。仕事が休みだったお母さんとキッズステーションアンパンマンを観る。お父さん(僕)が近づくと顔をそむけたりして嫌がる。

博士論文は・・・確かにのんびりできる状況ではないが、焦っているのも事実。もちろん同じ状況下で焦りがない人なんていないだろうけど、いま感じている焦りは、なんか悪い未来予想(何が起こるか未定なはずの未来を悪い状況オンリーなものとして妄想する。たとえば、結局書けなかった、とか、先生や研究室の人に罵倒されるとか、今までだってそんなこと起こらなかったし、そんなことする人たちではないことわかっているのに、自分がボロボロになっていく光景だけが浮かぶ。しかし、こういう根拠のない想像や被害妄想って、結局ある種の八つ当たりでしかない気がする。)や無力感に追い立てられるような焦燥感かもしれない。
この種の焦燥感にとらわれると、何をやっても煮詰まった感じになり、動けなくなって(書けなくなって)しまう。この先には、動けなくなってしまったことでさらに焦り・・・という「黒い焦燥感スパイラル」が待ち受けている。

誰かがツイッターで、煮詰まっている、手詰まりになっていると感じているときは、「煮詰まっている」と思うのではなくて、「『煮詰まっている』と感じている」ということのほうに思いを向けるべきで、肝心なのはそう感じていることから回復することだと書いてあるのを見た。(実際は140字なのでもっと簡潔にスマートに書いてあったと思う)。

それと関係あるかわからないが、たぶん「博士論文の完全体」という遠くの大きすぎる目標だけをイメージすると、その大きさだけがプレッシャーになって歩けなくなってしまう。
この一文字が原稿用紙一枚になり、この原稿用紙一枚が十枚になり、そして一章ができあがり・・・とあえて視野を狭めてみることも必要な気がする。たとえば、参考文献表の見直しでもいい。たとえば、一つだけ発行年のところが「2003」となっていて、ほかのは全部「2001年」と「年」が付いている。だから「2003年」にして表記を統一する。副題の前についている「―(ダッシュ)」が半角と全角混じっている。どちらかに統一するとか、大きくて遠いゴールには一挙に届かないけど、確実に一歩一歩前に進んでいることを実感するようなことをやる。
「まだゴールまで程遠い・・・(泣)」と思うのではなく「今日は一メートルだけだけど進めた。YES!」と思うこと。
もちろん論文だから内容が一番大事。しかし、甘いと言われるかもしれないけれど、その論文を書く自分自身を守り進んでいくことも大事だろう。

進めば進む程道はけわしくまわりに人はいなくなる。自分で自分を調整・修理(メンテナンス)できる人間しか、どのみち先へはすすめなくなるんだよ。(羽海野チカ3月のライオン』1巻,p.174)

3月のライオン (1) (ヤングアニマルコミックス)

3月のライオン (1) (ヤングアニマルコミックス)

・・・っていうか、こんなこと書いてないで仕事しろ、自分。

ウニャ子のインフルエンザ疑惑にビビッて父(僕)は予防接種を決意し、今朝受けてきた。
妻に、「(博論執筆引きこもりニートだから)どうせ人混みの中とかいかないでしょ?行くとしても近くのスーパーでしょ?意味あるの?」みたいなこと言われた。反論しようがないほど真理だった。