寒い。雪が降ってきた。

博士論文の申請が受理されたと指導教官の先生から連絡。ありがとうございます。
といっても、まだ「博士号が欲しいので申請してもいいですか?」「まぁ、申請ぐらいだったら許可してやらんでもないかな。ほんとうにあげるかどうかは・・・プッ・・ククク・・・。」な状態なので、口頭試問までは気が抜けない。

メルロ=ポンティ 足フェチ」で検索してきた方がいるらしいが、彼って、そ、そうなのか?
ていうか、足フェチといえばカントだろ?

先日、新聞で記事を見つけてさっそくアマゾンさんに注文。きのう届いた。

言葉のフーガ自由に、精緻に

言葉のフーガ自由に、精緻に

吉田秀和先生の60年以上にわたる執筆活動を一冊に凝縮した究極ベスト。全集も13巻まで持っているので既読のものもあるが、博士論文も一段落したせいかどれも新鮮な気持ちで読める。石を握り締め、人間と人間との関係を規定するのは憎悪だけだと吐き捨てる箇所が印象的な、1950年に発表れたシューマン論からはじまり、ホロヴィッツを「ひび割れた骨董」と評したあの有名なコンサート評など、思わず読みふけってしまった。カルロス・クライバーについて書かれたものははじめて読んだ気がする。1986年の来日コンサートについてすごく肯定的に書いていて、おお、そういえばこの録音持ってるぞ、ちょっとうれしい気分になったりする。
あと、堀江敏幸の「自分だけを救わないこと」と題された解説も素敵だった。

私が納得いかないのは…(中略)…トスカニーニがあくまで管弦楽の演奏をしているのであって、ブラームスの音楽を演奏しているのではない、という点にある。つまり、トスカニーニは決して自分を裏切っているのではなくて、彼はむしろ自分だけを救うのだ。(p.188)

という吉田の言葉を受けて、

「自分だけを救う」音楽や小説や絵画や芝居を、私たちはどれだけ扱いかねてきたことか。誰かを救うなどという大それた目的や理念を先に掲げるのではなく、地道に仕事を重ねた結果として遠くへ行ってしまった才能こそが、評価の対象へと育っていくのである。(p.592)

と書かれた箇所は、自戒の意味も含めて、印象的だった。


本に新聞の切抜きを挟んだ。ときどき古本屋で買った本のなかに、その本の書評や広告の切り抜きが挟まっているときがある。そういうものに出会うとき、前の持ち主が新聞の片隅に見つけた書評や広告を持って本屋に行き、見つからないときは店員に尋ね、注文し、手に入ったらこの切抜きを挟んでおくという光景がすごくリアルに浮かぶときがある。いまなら書評などネットで検索すればいくらでも出てくる。アマゾンのレビューも玉石混交とはいえ書評といえば書評だろう。しかし、そんなネットなどない時代、新聞や雑誌の書評や広告って、本を買う上で非常に重要な判断要素だったのではないだろうか。それはともかく、切り抜きってなんかいいな、と思う。