昨日、つまり4月10日(火)はついに長男坊の小学校入学式。
ほんとうについこのあいだ生まれた気もするが、実はもう小学一年生なのだ。
教室に入って自分の名前が貼られた席に座り、入学式について説明を聞いたり、起立・礼・着席のリハーサルをしたりしている姿をみると、やはり保育園入園と小学校入学はぜんぜん次元の違う話だなと思った。これからずいぶんと長い間「学校」という空間の中で生きていくことになるのだと思うと、父親の僕のほうがその変化に戸惑いを感じている。
たぶん、特に小・中学校時代が自分にとって窮屈で、不自由で、面倒くさかったことが、自分をこんな気持ちにさせているのかも知れない。もちろん楽しいこともあったけれど、嫌な思いをしたり、意味がわからなかったり、効率的とは思えなかったりする経験を、同じように自分の子供たちもすることになるのかと思うと、確かに小学校入学はめでたいことだけれど、これからそういう面倒くさい感情をくぐることになるのかと思うと、ちょっと複雑な気持ちになった。
もちろん、それは子どもとは別人格の存在である父親の僕が自分の小中学校時代を振返って思うことであって、その意味では子どもたちのこれからの学校生活とは関係ない。もし何らかの関係があったとしても、多かれ少なかれ、その子ども時代ならではの複雑な感情の森を彼はくぐり抜けていかなくてはならないのだろう。
子どもの前では絶対こういうことは言わないが、はっきりいって、大人になってほんとうに良かったと思う。今現在、小学生や中学生じゃなくて良かったと思う。
これからしばらくのあいだは、「学校」という社会が彼のなかで大きな意味を持つようになるだろう。というか、彼にとってほとんど「社会」=「学校」となるだろう。でも忘れてほしくないのは、その「学校」という社会が実は子どもが思っている以上に小さな社会でしかないということだ。(というか、当事者である子どもは自分達にとっての社会は学校であるなんて思わないのだが。)そのことは折に触れて彼に話してやりたい。(かといって学校の存在を疎かにしていいというわけではないのだが。)この世界のほんの一部分に過ぎないが、君たちはあまりにすっぱりその世界の中にいるから、そのことに自分で気づくことは難しいし、そんなこと言われても理解できないだけなのだ。
もちろん、そのことに気づいたからといって何がどうなるわけでもない。学校が消えるわけでも、いじめが急に消滅するわけでもない。しかし、親としてはなるべく彼の世界の風通しを良くして、学校の外の風景が見えるようにしてあげたいと思う。
ただし、とうてい『プレジデントファミリー』に載るような親にはなれないだろうけれども。


というわけで、今日は登校初日・・・のはずが、数日前からの発熱(入学式は無理して出た)がいっこうに収まらず、今日も朝から38.5度〜39.2度の高熱だったので休んだ。かなり張り切っていたのに初日から病欠・・・。ま、がんばれ。