きままな週末。子らと3人で過ごす。風が強くてときどき玄関が勝手に開くので鍵を閉める。

きのう、実家の電話を止めた。
今更ながらという感もなくはないが、実際のところ誰も住んでいないし、たとえかかってきたとしても、誰も出ることは無いので、もっと早く無くしてもよかったのだが、今になってしまった。
この「自分の実家の電話番号」って、生まれてこのかたいったい何度、書類やメモ、手紙等々、自分は書いたことだろう。
子どもにとっての「意味のある数列」という意味では、自分の生年月日と同じぐらい自分と家族を結ぶものというか、生命線というか、この自分の家の電話番号というのは、家の外や町の外にいるときに家と自分とを繋ぐ数字だった。
自分や父母、妹、そして僕の家に用事がある人・・・いったい何人の人によって、いったい何回この数字の組み合わせはダイヤルされたのだろう。おそろしく膨大になるであろうその数字を思うと(たぶんNTTに問い合わせれば、時間はかかるが大体の数字はわかるのではないだろうか)、ぼう然となると同時に、この電話を止めることがすごく大ごとのような気がしていた。この番号とともに生きた子ども時代や小中高時代も消えてしまうような気がした。
しかし、そんなことを言っていてもしかたないだろう。忘れられていくものは忘れられていき、憶えられてあるものだけが残っていく。きっとそれだけのことなのだろう。