ゴールデンウィーンク後半ももはや中盤。

書き忘れていたが先月末、4月28日(土)はウニャ子の保育園の遠足。

晴天に恵まれて気持ちの良い遠足だった。お弁当のあと、1時過ぎには解散だったが、ウニャ子は公園に残ったまま遊びまくり、結局家路に着いたのは3時半頃だっただろうか。もちろん保育園の先生たちもみんな帰ってしまっていて、残っていたのはうちを含め2家族だけだった。


若葉の緑も桜も美しい季節。ふと、こんなに美しくて気持ち良い世界であっても、父の死後の世界なのだなと思った。もっと子どもたちと父とを、こういうところに一緒に連れてくればよかったなと思った。

夕方から長崎の友人家族と合流。焼肉→温泉→飲み→トーク→爆睡の流れ。次の日は前日遠足で行った公園に再びみんなで行き、子どもたちを遊ばせた。

本の音 (中公文庫)

本の音 (中公文庫)

書評集。ときどきむしょうにこの人の文章を読みたくなってしまうのだが、頁に漂う独特の陰影やセンスは、もはや憧憬をこえて嫉妬に近いほど。

それにしても世の中には自分が読んだことのない本でいっぱいだ。当たり前だけど。この本のなかで読んだことがあるのは村上春樹の『シドニー』とベケット/ドゥルーズの『消尽したもの』ぐらいだ。

yomunelさんが日記http://d.hatena.ne.jp/yomunel/20120502で引用していた阿部公彦氏の書評が、あまりに意を得ている感じで笑えた。



きのうのカエルの死体をめぐる話を考えているうちに、自分の子が小学校に入ったことが何故こんなに自分にとって不安なのかということの原因の端緒が見えた気がした。

集団行動しなきゃならないとか、同じ方向をみんなで向かなければならない雰囲気が苦手ということもある。
しかし、もっと本質的なものは、後から埋めるなといってきた女子のような「それが本当に公正か、正しいかはさて置いて『自分にとっての正しさ』だけを声の大きさで押し付ける」ことへの違和感・嫌悪感であり、こういったものが自分自身に小学生時代を通じて思いのほか身にしみているように感じた。

小学校の頃の記憶は薄れていてほとんど思い出せることはないが、なんか、女子・男子に関わらず、こういう「自分にとっての正しさ」を言い出す人が口を開くときの、「・・・」な雰囲気って、なんとなく憶えている。

自分は学校が終わって家に帰るとき、日によっていろんなルートを経て帰っていた。もちろん学校的には「通学ルート」があって、事故防止的にも安全確保のためにも、いちおう子どもたちはこのルートを通って帰らなければならなかったのだろうが、自分はけっこう適当にいろんな道を通って帰っていた。結果として恐ろしく遠回りになったとしても。

するとときどきいるのだ。「なんでこの道で帰ってるの!?」と声かけてくる子どもが。知ってる子だったり、全く知らない上級生だったりする。お前に関係ないだろ、と思うが、気が小さいのでいえない。とにかくそういうときは逃げるしかなかった。

もちろん規定の通学ルートを通っていない自分が悪いので、道徳的に正しいのは相手側なのだが、とにかく「道徳的に正しい」というその正しさにによって、自身の正しさを正当化しているというそのことが、おそらくこの僕を疲れさせるのだろう。

あのとき、自分がこの言葉を知っており、なおかつ自分にこの言葉を言える強さがあったら、もっと違う自分になれたかもしれない。

ところでこの画像とこの文言ってよくみかけるんだけど、いったい元ネタは何なんだろう。そしてこの少女は誰?


よりによってデカルトに同じこと言わせてみた。