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なにやら「大雨のおそれ」らしいが、洪水も困るが洗濯物が乾かないのが困る。
今日は午後からウニャ子の三歳児検診、そして4時半から長男坊の歯医者と、午後からは自分の時間はまったくない予定。
読みかけだった本の続き。
- 作者: 丹治信春
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2009/10/01
- メディア: 単行本
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実は大学2年になって専門のゼミが始まったとき、はじめて出たゼミのテキストがクワインの『ことばと対象』だった。当時、分析哲学のぶの字も知らなかったうえに、先生も先輩「そもそも分析哲学とか言語哲学って?っていうかクワインってどんな人?」といった前提となる話をまったくしないままに本の途中から(たぶん前年度の続き)はじまって、あれほど頭の中に「?」が飛び交ったことは初めてだった。
いまだから言えるけど、「ああいう授業はしてはいかんな」と思う。まぁ、「そんなこと自分で調べろ!」と言われればそれまでだが、この歳になって「あのゼミはこんな面白い話についてのゼミだったのか!」と思い至ると、だったらあのときそう言ってくれたらよかったのに、と思う。
すくなくとも、当時の自分に「先生、そもそも何が問題になってるんですか?」とか「前提としてどんな本を読めばいいですか?」と聞ける勇気があればよかったのだ。
それはともかく、まだ第一章のカルナップのあたりまでしか読んでいないのだが、カルナップによれば、哲学とは「科学の論理学」であり、それは科学言語の構文論syntaxを意味する。構文論とは、いわゆる「意味」とか「指示対象」云々ということは問題にせず、ただ或る言語におけることば(記号)の現われ方、ひどくざっくばらんに言えば「文字づら」だけを問題にする。
構文論は形成規則(どんな記号列を「文」とみなしてよいか)と変形規則(どのような文をどのような文からの帰結とみなしてよいか)からなっていて、つまり、構文論においては、個々の文や表現が「意味すること」から文と文の関係(帰結関係)を読み取るのではなく、逆に、構文論的規則によって定められた帰結関係から意味が派生すると考えるのである。
カルナップは述語を1.「記号についての述語」(たとえば「黒猫は漢字二文字である」)と、2.そうでないものに分け、さらに「記号についての述語」は1.‐1構文論的な述語と1.−2構文論的な述語ではない述語にわける。
そして2.については2.−1準‐構文論的な述語と2.−2それ以外の述語にわける。
そして問題となるのは2.−1準‐構文論的な述語であり、これこそが刑而上学の温床、哲学においてさまざまな混乱を生じさせるものなのである。
あ、しかしこういう議論には次のような大前提がある。
哲学者が扱う様々な問題つまり「世界とは・・・」「神とは・・・」といった問題においては、対象がなんであれ哲学者は「この世界における何ものか」について語っている。つまり、哲学者が相対する「世界の側」が問題となっている。
だが、ほんとうにそうなのか?問題となっているのは「世界の側」ではなく、「『世界の側』について語る」われわれの語り方、われわれがそれについて語るときに使用する言語のほうにあるのではないか?(言語論的転回)