ときおり家の中の音が何も聞こえなくなるほど激しい雨音。屋根に穴があきそう。

妻の職場にうちの子と同じクラス、というか席が隣の子のお母さんがいる。うちの子はあまり学校でのことは話さない(聞いても「忘れた」とかそんな調子)が、その隣の席の子経由(厳密にはそのお母さん経由)で、うちの子の学校での様子が垣間見れるときがある。
それによると、うちの子はちょっと威張っていて、女子と話すときはカッコつける奴(ふだんは「〜だよ」という口調なのに、女子と話すときだけ「〜だぜ」口調になるなど)らしい。

長男の持って帰ってきた学級通信に、算数が難しいと感じている子もいるよう、なんてことが書いてあった。たしかに「足し算」の「足す」とか「合わせる」ということの意味、あと、「残りはいくつでしょう?」や「違いはいくつですか?」という問いが引き算を要求していることなど、なかなか言葉で説明するのは難しい。
数直線を使って考える問題の場合、そもそも数直線が何を意味しているのか、なぜ数字を一直線上に並べて考えるのか(右にいくほど数が小さくなり、左に行くほど数はちいさくなるとか、目盛りが一つ違うと数も一つ分増えるか減る、など)を理解させるほうが難しい。

そういえばいま宿題で「足して10になる組み合わせの暗唱」というのがあって、「10は1と9・・・10は2と8・・・」というのを長男坊は1日5回繰り返している。

算数の宿題でたとえば2+3を説明するとき、「饅頭二つ(●●)に饅頭三つ(●●●)を加えると・・・」という感じで話しているのだが、よくな考えたら大人はこんなことはしない。
饅頭も黒丸も関係なく、「2」と「3」という数字の組み合わせが意味するのは「5」(あるいは1、−1、6)なのだ。このあたりはイメージ説的や指示対象説的というよりも、もっとシンプルに構文論的に理解している気がする。というより、計算力よりも記憶力や記憶喚起能力を使っているというのか(掛け算の九九はその最たるものだろう)。

加減乗除のいずれかということはおいといても、ある数字の組み合わせが、計算過程をすっとばして特定のいくつかの数字に直接結びついている。いつのまにか「計算しなくてもこの数字の組み合わせはあの数字になる」ということを理解してしまうからだろう。そう考えると、この「計算しなくても」ということを子どもたちが理解するということは、なんだかすごいことのように思える。
つまりある数字の操作を、実際の(経験的な)意味対象(たとえば饅頭やりんご)の具体的な数量的操作に依らずに行うということは、式の構造すなわち文の構造によってものごとを理解することをより徹底してできるようになるということではないのか。
「より徹底して」と書いたのは、べつに小学生になってはじめて世界を言葉としてとらえることを学ぶのではなく、おそらく生まれてからずっとそうしてきただろうからだ。ものが集まって事実が生じ、それから言葉が生まれるのではなく、言葉を起点にものや事実がその周辺に集まって編成されるような経験を、いまあらためて学び直しているのではないだろうか。


風呂上りに「学校の勉強は難しくない?」と子どもに聞くと、次のような答えが返ってきた。

「小学一年生にとっては難しいけど、中学生にとっては簡単だね。」

いや、だから小学一年生のおまえはどうなんだって話だよ。


新しいパソコンを購入して以来(といってももう一年以上前だが)、パソコンの壁紙を変えたことがなかった。ずっとデフォルトのwindowsロゴのやつを使っていた。
が、ちょっとかわいい画像を見つけたので壁紙に使ってみた。

貴婦人と一角獣La Dame à la licorne」と題された6枚からなる連作タペストリーのなかの一枚で、「味覚」、「聴覚」、「視覚」、「嗅覚」、「触覚」と続いて最後の一枚「我が唯一つの望みA mon seul désir」である。パリのクリュニー美術館(中世美術館)にある。

実際は画面(1366×768)にあわせてトリミングしてこんな感じ。

ウサギや子犬などの小動物たちがかわいいのだが、ちょっとアイコンが見にくい。