今週末は親子美術教室でダンボールタウン作り。主に男子チームはスーパーを担当。そして女子チームはレストランを担当したのだが、なんというか、やはり男子と女子は違うんだなと思ってしまうほどの女子チームの繊細さ・細かさ。メニューから窓際の花まで、ファンタジーのリアリティ(?)が圧倒的。

著者様から献呈いただいた本を読んでいたら思わず食べたくなったので豚の角煮を作る。
本に書いてあるとおり、塊を柔らかくなるまで水から煮て、冷えたら表面の油を取り除き、酒と醤油と砂糖で味付け。こんなシンプルな作り方でいいのか?とちょっと不安になったが、今までの中で一番おいしいかも・・・・。
ねぎとか生姜とか、そういう「くさみを消す」系のものは一切なしというのもちょっと個人的には挑戦だったが、くさみとかぜんぜん気にならない。柔らかさもこれまでで一番な気がする。

長崎おいしい歳時記

長崎おいしい歳時記

前著よりもずっと文章も多く、濃い気がして、ひとつのトピックを読み通すにも「ざっと読み」ということができない。(もちろん前著が軽いとかそういう意味ではない。)
本の中で紹介されている店や食べ物は、実際に連れて行ってもらってそれこそ家族みんなで食べ店だったり、食べさせてもあったりしたもので、そこに書かれているものを読んでいると、いったいこの記憶は自分の記憶なのかそれとも誰かの記憶なのだろうか、なんとも自分の境界がぼやけてしまうような不思議な気分になる。
料理のレシピも、写真もイラストも、もちろんどれも素敵なのだが、とにかく「記憶のヴォリューム」(数値的な「情報量」ではない)が圧倒的というか、何ページか読むとちょっと休憩しないといけないぐらい、著者の文体と記憶が強力なスクラムを組んでそこに存在していて、ぞんざいには読めないのだ。
それと同時に、自分にとっての記憶というものを考える。自分にとって、これほどまでに、そして語るに足るような記憶というものがあるのか。語るに足るかどうかはとりあえず置いておくとしても、このところ、いろんなことを思い出そうと試みてみたがなかなかうまくいかない。よっぽどボーっと生きていたのだろう。最近では自分が子どもだった頃の両親、つまり若かった頃の両親の姿すら思い出せない。それどころか、自分の大学時代の記憶ですらおぼつかない。なにか抑圧でもあるのか?というぐらいに空白だ。
ところが、台所で夕飯を作っているとき、洗濯物をたたんでいるとき、掃除機をかけているとき、ふと昔のことを思い出すときがある。記憶というものは思っている以上にこちら側からの働きかけ、再認的行為によって成立しているのではないかという気がする。例えばベルクソン風に言えば過去は脳の或る部位のなかに収納されたデータではなく、むしろ脳は過去(記憶)とこの物質的世界の接点にすぎず、過去は脳をあふれ出して空気のなかにそれ自体として存在していて、ふとしたきっかけで自分でもそうとは知らずに再構成してしまったもの、それが過去の記憶というものかもしれない。つまり、われわれは珈琲の香りの中に、豚の角煮のなかに実在する記憶そして過去を読み取っていて、たとば角煮を作っているときの「私」とは豚の角煮のことだったりするのである。
それはともかくとして、「る○ぶ」とか「じゃ○ん」的な、「おいしいお店!おしゃれなお店!食べ歩き!カステラ!平和公園!キャハッ!」的なものだけを期待していると、とんでもないことになる一冊。しかし、長崎の日常、長崎の空気、長崎のほんとうにおいしいもの、長崎の過去と現在、角煮やハトシのなかに潜んでいる記憶(それは著者だけでなく長崎そのものの記憶)にグルグルされたいなら絶対に欠かせない一冊だと思う。だから、或る意味では長崎についての本だとは言えない。思い出すということ、現在の日常が記憶・過去とともにあるということをめぐる書物であると同時に、そんな日常の頼もしさ・壊れやすさをめぐる書物だといえる。


最近の作業用BGM。

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX O.S.T.

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX O.S.T.

アニメも大好きだったけれど、またキッズステーションなんかで再放送してくれないだろうか。
しかし、よくよく設定を思い出してみると、第4次だか5次世界大戦後、核攻撃による放射能の影響で東日本が住めなくなって首都機能が西日本(福岡あるいは神戸)に移り、しかも日本は「放射能除去装置」なるものの発明により奇跡的な経済復興を遂げている・・・という、あらためて書いてみると今どきちょっと現実がオーバーラップしすぎてアレな感じの作品だ・・・。
それはともかく、11曲目の「Innner Universe」から最後の「モノクローム」までの流れがすごく好きだ。