数日前に村上春樹インタビュー集のことを書いたが、読み返してみるとなんか小難しいこと書いていて恥ずかしい。

実際の本は、村上春樹本人が子ども時代について、翻訳について、自分の作品について、小説の書き方について語っていて、話題も豊富でとても楽しい本です。

しかし「物語に閉じ込められる」というのはほんとうに恐ろしいことだ。
というのも、他人事ではないからである。他ならない自分自身がそういう状況だったのだと今では思う。

大学に入って運動系の部活に入っていた僕は、毎日練習に明け暮れていた。そして僕だけでなくクラブ全体に大きな影響力を持っていたのは顧問でありコーチでもある一人の男だった。確かにその男のおかげで僕の技術は向上したのだろう。彼の指導がなければ僕は表彰台に上がることもなかったかもしれない。
だが、僕はその男が嫌いだった。いい歳をしているくせに子どもじみた感情を表に出しても恥ずかしいとも思わない、むしろそんな理不尽なことが社会では当たり前に起きることなんだとでもいいたげな、そんな子どもじみたところが大嫌いだった。
でも、僕は試合に勝ちたかったから、その男のそんな嫌な部分には目をつむり、ひたすらその男を「指導マシーン」として利用しようと決めた。お前の人間性の未熟さはどうでもいい。とにかくお前は俺を勝たせろ、と。
だが、そんな乖離的状況を自分で作り出せるほど自分は大人ではなかったことにしばらくして気がついた。遅すぎるぐらいずっと後になって気がついた。

きっかけはその男のある一言だった。別に何ということもない一言。たぶん、100人中100人がそのまま聞き流してしまうだろうような一言だった。でも僕はその言葉の中に、その男が僕たちクラブに関わる人間すべてに抱いている侮蔑と傲慢、そして自分の支配力の自覚を読み取った。

そのとき気がついた。ああ、自分もこの男と同じだったんだと。くそつまらないちっぽけな物語で他人を縛り、傷つけてきたんだと。目の前が晴れた気がした。そのときはじめて、自分がそんなくそつまらない物語のなかにいたことに気づいた。

それ以来、この男とも、自分が所属してクラブとも縁を切った。OBOG会の副会長をしていたが、一方的に辞任届けを送り付け、集まりに行くことも止めた。一切こちらから連絡することも、連絡に反応することもやめた。最初はあの男も、クラブの連中も、僕の一方的な絶交に何か言いたげだったが、もう耳を貸したくなかった。閉じた物語という壁の向こう側から、頭だけ出して死んだ目で俺を見つめている奴等からとにかく逃げ出したかったのだ。

それがもう数年前のこと。ちょうど上の子が生まれた頃だから、5、6年前のことだ。
今年のはじめ、あの元顧問・コーチからメールがきた。久しぶりに集まりに顔をださないかと。もちろん返事なんてしない。黙殺した。気持ち悪い。

閉じた物語。しかし、この概念の難しさは、それが人々を縛り、物語の中に支配することで決定的に人々を傷つけるものである一方、そのなかでこそ人々は生き生きとすることができるという面があるということだ。あの頃の自分は、あの男の閉じた世界の中で、きっと生き生きとしていたのだろう。他人を傷つけても。




そして数週間前、偶然あの男を見かけた。ショッピングモールのなかですれちがったのだ。向こうは気づかなかったし、僕も話すことはないし汚らわしいと思って無視して通り過ぎた。

だが、僕は落胆した。「落胆する」とはこういうことをいうのかというほど落胆した。なぜなら、その男がほんとうに元気そうだったからだ。

僕があの男を思い浮かべるとき、男はすでに死の床にあり、体中チューブでつながれ、そこまでいかなかったとしても車椅子のうえで呆けた顔で涎を流してあとは死を待つばかりの姿だった。絶対にそうでなくてはならなかった。だが、現実は違った。車椅子どころか、年齢は僕の死んだ父より上のはずなのに、しっかり自分の足で歩いて、のんきにソフトクリームを舐めながら歩いている。

愕然として、落胆した。あの男はありとあらゆる苦しみを味わって死にゆくべきだ、むしろそうなるように決まっているのだという自分の確信が大きく揺らいだ。

村上春樹の『神の子供たちはみな踊る』という短編集中の「タイランド」で、主人公は予言師の老婆に、神戸の男(主人公が深く憎む男)は生きている、震災でもかすり傷ひとつ負っていない、ということを告げられるシーンがある。
さらに老婆は、男が無事だったことはお前が望んだことではないかもしれないが、お前にとっては幸運だったと主人公に告げる。

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

このシーンはよく憶えているのだが、どう理解していいのか未だにわからない。果たして何がどう幸運なのだろうか。



今年生誕80年というか、昨日9月25日が80歳の誕生日だったグレン・グールドのCDが装いも新たにアマゾンさんにたくさん出ていたので、持っていなかったモーツァルトピアノソナタ全集とベートーヴェンピアノソナタ集を購入。

Glenn Gould Plays Mozart: the Piano Sona

Glenn Gould Plays Mozart: the Piano Sona

Beethoven: Piano Sonatas

Beethoven: Piano Sonatas

アマゾンさんどころか、今ほど輸入版を店で見かけることもなかった学生時代、モーツァルトは国内版で5000円ぐらいしていたのではないだろうか。ベートーヴェンについては一巻・二巻の二部構成で、二つそろえると6000円超えてたのではないだろうか。
それが今では、モーツァルトが1200円弱、ベートーヴェンも1500円を切っている。ベートーヴェンは前半部分にあたる1〜14番はすでに昔からあるグレン・グールド・エディションの輸入盤で持っている。しかし残りのものをグレン・グールド・エディションの後半(〜32番まで)で買うよりも、全録音揃ったこの新装版で買うほうが安かった。モーツァルトのほうはピアノ協奏曲24番と、ピアノソナタ10番の別年代録音などもセットになっている。ベートーヴェンのほうは、本人も予期せぬ突然の死の為に全集は未完成。
欠落している4番、19番、28番、「ハンマークラーヴィア」などは、正規レコーディング以外の放送録音などで聴くことができる。ただ、これらの放送録音も残っているのが第二章だけだったりと完全ではない。

ベートーヴェン、とくに作品の31に含まれるの三曲は「なんで今まで聴かなかったんだろう・・・」というぐらいにすばらしい。作品31の2が有名な「テンペスト」だが、三曲でひとつの大きな作品をなすような充実感。

モーツァルトのほうは、いまの心情のせいか、いまいちピンとこなかった。