学会、保育園の運動会となんだかんだで家にいないことが続いたが、なんとか日常に生還。三日分の洗濯で午前中は終了。あと、給食のエプロンをアイロンがけして、小学校まで持っていった。金木犀の匂いが部屋の中にまで。

最近思うに、自分は実のところけっこうミステリ好きなのではないか。

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

京極夏彦というひとの小説をはじめて読んだ。ミステリ業界でこの人がどういう位置にあるの不勉強にして寡聞であるし、トリック・・・と言うのだろうか、これがミステリ小説としてはどう評価されるのかも見当もつかない。しかし、現代のミステリ小説が単なる「犯人探しゲーム」的ものとしてはもう存在し得ないということは、なんとなくわかった気がする。
妖怪や呪詛、陰陽道民俗学をめぐる議論が何ページも続いたかと思えば、心霊と科学をめぐる議論がまた何ページも続き、いったい何の本を読んでいるんだかわからなくなる。事件とどう関係しているのか、そもそも関係しているのかさえよくわからない。だが、そういうところが個人的には気に入った。できれば中学二年生ぐらいのときに読んでおきたかった。きっともっとダークな中学生になれたはずだ。
これらの議論の根底には、「見えるもの」そして「見えないもの」をめぐる現象学的とも言っていい哲学的考察が存在している。
探偵役の一人(探偵は語り手である関口巽ほか数人いる)、京極堂は古本屋の仕事のかたわら神主という立場におり、時には憑物払いのようなこともやるのだが所謂神秘主義者ではない。むしろ徹底したデカルト的とも言えるまでに懐疑論者である。しかしそのことはこの場合近代科学主義者を意味してはいない。

幽霊はいるよ。見えるし、触れるし、声も聞こえるからさ。しかし存在しない。だから科学では扱えない。でも科学で扱えないから、絵空事だ、存在しないというのは間違っている。実際いるんだから。(p.30)

存在しないが「実際にいる」というとはどういうことだろうか。
見えないもの(幽霊でも妖怪でもなんでもいいが)の実在を巡る議論にはつねに落とし穴がある。神秘主義者は「見ないもの」が実在すると主張するだろう。それに対して科学主義者はその類の「見えないもの」ものを幻覚や錯覚として排除する。彼らにとっての実在とは物質であり数値である。
だが実はどちらも実は同じ構造で議論している。神秘主義者は幽霊や妖怪という存在者を「実在」として根底において議論を構成し、科学主義者は物質という「実在」を根底において議論している。つまり、両者とも何らかのものがそれを語る自分の意識とは独立に、それ自体として「実在」するという事実を不動のものとして認めることで議論を構成している。つまり、極端な神秘主義者も極端な科学主義者も、素朴な実在論者という点では一致する。

この本の前半部分で延々と続く議論のポイントは、心脳問題である。
だが、ここにも落とし穴がある。われわれの意識とは、脳の活動それ自体だと言っていいのだろうか。脳もまた身体器官のひとつである。つまり、物質である。意識とは脳の活動それ自体だということが正しければ、その脳の中で無数に生じいる微細かつ複雑な物理反応の総体こそが脳であり意識だということになる。
無論、痛みも、匂いも、光も、すべて感覚神経と脳が情報処理し形成したものである。われわれの意識はそれを「現実」あるいは「実在」として受け入れる。いや、受け入れるも何も、それだけが現実であり実在である。
だが、それが現実であり、実在であるという保証はどこにあるのだろうか。いま見ているマグカップシャープペンシルが現実に存在しているという確証を、われわれはどのようにして手に入れているのか。

このマグカップは、昼ごろ作って冷えてしまった珈琲を入れて飲むためにさっき棚から出してきて、いまは机にあるのだとか、このシャープペンシルは先月文房具屋で衝動買いした結果、いま手元にあるのだという「記憶」が何かの助けになるかもしれない。だが、この記憶ですら脳が生み出したものだとしたら?

これはその人の心にとってみれば―と、いうより内側の世界では絶対に現実のものと区別はつかないよ。いうなれば、これは仮想現実とでも呼ぼうかね。いやその人個人にしてみればまさに現実さ。現実そのものだってまったく脳の検閲を受けて入ってくるんだからね。我我は誰一人として真実の世界を見たり、聞いたりすることはできないんだ。脳の選んだ、いわば偏った僅かな情報のみを知覚しているだけなんだ。(p.42)

京極堂は脳=意識、心という科学主義的な立場はとらない。かといって、意識や心を脳という物質的存在を完全に超えた、超越的存在とも考えない。むしろ京極堂にとって意識とは、「脳と心の交易の場」(p.33)として機能している。
ベルクソンならば脳とは「中央電話局」(『物質と記憶』)と言うであろう。いずれにしろ脳は意識活動において重要な役割を果たしていることは間違いないが、そのことは脳イコール意識、精神であることを必ずしも意味しない。
このような観念的な概念を導入せずとも次のことは明らかである。ある実験装置を使って検出された数値結果によってわれわれが現実と呼ぶものをすべて脳内の物理的・生理学的によって記述することは脳そのものを検証したことにはならない。なぜならば、そのときわれわれが読み取っているのは脳そのものではなく、実験装置だからである。
すでに21世紀を生きるわれわれにとっては京極堂の弁を待つまでもなく、観察者と観察対象の完全な分離などもはや旧時代の神話でしかない。不確定性原理の話を持ち出すまでもなく、観察行為自体が対象に影響を与えるのであり、その意味では「正しい観察結果」は観察行為のない状態でしか求められない。

われわれは目の前の現実が現実である根拠を、脳にも、目の前に存在するマグカップの質量的実在感の中にも求めることはできない。そうだとすれば、現実とは、意識という「脳と心の交易の場」に現われるものであるということになるのであろうか。
だがそう考えれば、幽霊が存在するということは何も不思議なことではなくなる。脳と心が、記憶や願望、感情をミックスさせながら意識に見せるものに、たまたま「幽霊」や「妖怪」とカテゴライズされるものが混じっていたというだけの話だ。しかしこのような話と、全てを脳内現象に還元する議論とを区別することは難しい。加えて、幽霊や妖怪という現象は、それについての伝説や、見る人間を取り巻く土地・歴史・社会的状況や共同体的条件を考慮しなければならないだろう。

夢と仮想現実は、ある部分を除いて非常によく似た構造を持っている。実際には起こってはいないことや実際には存在しないものが、現実と寸分たがわぬ形で意識に登場する訳だ。これらはみな記憶から派生した情報なのだ。しかし、意識のうえでは現実と区別できない。夢と仮想現実の差はただひとつ、現実との接点を、睡眠からの覚醒に求めるか、否か、それだけだ。(p.165)

ミステリなので事件内容についてはあまり触れないが、とにかくもっと若い頃、中学生の頃に出会いたかった。そしてもっとダークな中学生になりたかった。600ページ超という分量のものを100円で楽しめたことについてはほんとうにブックオフさんには感謝である。そして第二作『魍魎の匣』もすでに100円コーナーで購入して読了したがこちらは1000ページ超。200円でこんなに楽しませてもらっていいのかと思うと、パチンコやギャンブルが趣味じゃなくて良かったと思う。