きのう、ひさしぶりに赤ちゃんを抱っこした。こんな感じだったかなぁ・・・。その赤ちゃんたちに貸すためにベビーカの座席部分をはずして洗濯したのだけれど、いざ元に戻そうとしてもぜんぜん憶えてなかった。じぶんちの子どものために洗濯したのもずいぶん以前の話だ。
そういうこともあろうかと、バラす前に結合部分とか紐の巻き方とかを写真で撮っておいたので一応復元完了。危なかった。
この写真を撮ろうとしたときも、普通のコンパクトデジカメど撮ろうとしたらバッテリーが切れて、しょうがないから一眼レフで撮ろうとしたら、こちらもバッテリーが切れた。結局、携帯電話のカメラで撮った。

最近はこのCDが素晴らしい。素晴らしすぎる。

ATAK015フォー・マリア

ATAK015フォー・マリア

なるべく大音量で聴くようにしている。
アマゾンのレビューでは「教授のパクリ云々」と妙に低評価を付けている人もいるが、そもそも何かに似ていないというものがありえるのかということ自体が疑問である。
たしかに、別の作曲家の或る曲を連想させる場面もあるが、その部分だけを取り出して何か批評めいたことを言っても虚しい気がする。そのメロディラインがどんな意味を持つのかということは、その曲全体の中で、曲の構造との関係性において論じられるべきであり、その部分だけ聴くと確かに他の曲と似ているかもしれないけれど、曲の構造・進行の中でなぜその音の連なりが出てくるのかという必然性についての考察がなければ、何か虚しい。似ているということと同じだということは違う。パクリだと断ずることは、似ているということだけで自分の知識の中で二つの音楽を同一化してしまうことだ。
この渋谷慶一郎という人は、自分も最近知ったばかりで詳しいことはわからなないのだが、それでもインタビューや対談、ツイッターでの発言などを見ていると、メロディラインの類似を指摘する人たちとはまったく別の方向性において音楽を深化させようとしている。

この作品はきわめて緻密な録音方式が使われていて、そのためにピアノの一音一音に込められた情報量が桁違いで、タッチによって生じた弦の振動がその隣の弦を震わせ、残響し、空間にスッと消えていく気配が生々しいぐらい聴こえてくる。ふだん60年代の録音を聴いていることが多いので、この情報量の豊富さは新たな知覚が目覚めるほどだ。うちにあるような貧相な再生装置ではなく、もっと立派の再生装置だったら、もっと聴き取ることのできる情報量が増えるのではないだろうか。
このCDを再生すると、鍵盤へのタッチ、弦の振るえ、残響、そして何より音が響く空間と時間が立ち現われる。音楽というよりも音響という言葉を選んだほうが良いかも知れない。だが、個人的には、良い音楽とはメロディラインや理念や形式云々以前に、音響でなければならないと思っている。音響的存在として、新たな知覚と時間・空間が立ち現われることを可能にする特権的な芸術様式として。

渋谷慶一郎氏はコンピュータとボーカロイドによる「生身の人間のいないオペラ」を製作中らしい。人間のいないオペラ・・・。考えただけでも美しすぎてゾッとする。はやく聴きたい。