いまさらながら庭の薔薇の木の剪定。
周辺の雑草や細かい枝、枯れた枝を取り除くと、主幹というのか、主だった幹と主だった枝が見えてきて、この薔薇の木全体の構造がやったわかってきた。中には「ど、どうして・・・?」というぐらいに方向転換し、ほとんど180度違う方向に伸びていっているものもいる。人間にもそういうやつっていそうだが、なんだか都市高速をしたから見上げているような光景。

何が二人を分けたのか・・・。

薔薇の剪定の仕方って、厳密にはすごくいろいろなルールがあるのだろうが、素人なので難しいことはよくわからない。でも、どの本を見ても最終的にどのような形になるかを想像しながら切ればいいという点では共通していた気がするので、うちの場合は高さよりの横方向へ伸びていって柵になるような感じになってほしいので、なるべく横に流すように剪定し、枝を導く。

伸びた枝が地面に着いて、そのまま地中に突き刺さりながら伸びていき、まるで根のようになっていた。こいつは足元と頭から栄養が来ているのか・・・。いや、枝と地面のがひとつの円環を為していると考えれば、或る意味で永久機関・・・。

野いばらの実・・・というやつか?言葉で書くとかわいいけど、ちょっとエイリアンぽくて怖い。

隣に植えたブルーベリーにも今年はけっこう実がついたが、もう季節的には旬をすぎてしまった。

蜂がいた。たぶんこのあいだ刺されたのと同じ種類だ。

今年は久しぶりに蜂に刺された。蜂に刺されるなんて子どものとき以来だ。大人になってほとんどそんな経験はないが、子どものころはよく刺されていた気がする。そんなに子どもの頃って無茶をしていたのだろうか。

今年は雨も多く、庭の掃除をする機会がなくて庭も薔薇もいろいろ伸び放題だった。先月ぐらいに一度ばらの木の周辺をきれいにしようとしていたら、口のすこし上あたりを蜂に刺された。伸びた枝のあいだに巣をを作っていたのだ。
スズメバチのようなたいへんな蜂ではなく、小さい蜂だったので大したことにはならなかったが、ほんとうに痛かった。こんなに痛いものだっただろうか。久しぶりに身体的な痛みが原因で涙が出た。
蜂の巣の駆除といってもこちらは素人なので詳しいひとに聞いてみると、これぐらいなら殺虫剤ふりかければ大丈夫ということで、とにかく殺虫剤をふりかけては逃げ、そしてその繰り返しでなんとか蜂を殲滅。巣は枝ごと切って川にすてた。
しかし、今思うとかなりリスキーな方法ではなかっただろうか。蜂に追いかけられても逃げ切る自信がない。もっといい方法があったのではないだろうか。


憑霊信仰論 妖怪研究への試み (講談社学術文庫)

憑霊信仰論 妖怪研究への試み (講談社学術文庫)

論文読み・書きの息抜きに読んでいるが面白い。

「つき」という状態は、《日常の状態・能力+α》の状態であり、「つき」現象の発言の原因がαなのであるが、私たちは、その実体を把握し、理解することができず、したがって、便宜的に〈意味されたもの〉を欠いたカラッポの概念をαの部分に〈意味されたもの〉としてあてがっているのすぎないのである。・・・突き崩された日常世界を修復するために、実際には明確な指示物を伴わない、空虚な言葉である「もの」とか「つき」といった言葉を、異常な事態にあてが、本質はどうであれ、形式的・表面的な意味体系の回復をはかるのである。(p.34-35)

αの部分は人によって生霊、狐、神霊等々、その人の好みのものが代入されるというわけだが、目の前の現実であるにもかかわらず、それを現実として承認し得ない場合に、言葉によってフィクションを導入し、現実とフィクションが入り混じった状態であるはずの準‐現実をむしろ強固な現実をとして認識するという構造は、言われてみればなるほどという気がする。憑物現象とか憑依現象とかそんな特殊なケース以外にも、日常的な場面にもよくある気がする。もちろん、自分で自分にかける呪いもこうした構造によって説明されるだろう。