うちのオーディオ環境についての話だが、どうやら右側のスピーカーからマジで音が出てこなくなったようだ。館長からもらったオーディオ機器のなかでは比較的最近の機種のはずと思い調べてみると1991年製。確かに他のアンプ類が70年代のものだったことに比べればずっと最近だ・・・って、おいちょっとまて1991年ってもう20年以上前なのか

うちの子らと見続けていた「中二病でも恋がしたい!」の最終回録画をまだ見ていなかったで昼ごはんを食べながら見る。ヤバイ・・・。はじまった当初はただの痛い妄想少女アニメとばかり思っていたがこれほど深い終わりかたをするとは・・・。

中二病でも恋がしたい!  (1) [Blu-ray]

中二病でも恋がしたい! (1) [Blu-ray]

小学校高学年や中学生のいささか多感なころ、自分には実は隠された暗黒の力があって、それを導き出してくれる導師(マスター)に出逢いさえすればその力が解放され、世界を変えることが出来る・・・なんてことをその程度の差はあれ誰もがひそかに思っていたはずだ。
べつに暗黒の力でなくてもいい。クラシック音楽や哲学、文学を好む傾向などはその最たるものだといえるだろう。自分の中にある他人とは違う何か、他人にはない自分だけの何か、凡庸な他人には見えないが自分だけには見えている何かによって世界を変えることができるのではないか(はずだ)・・・。しかし、そんないささか過剰な自意識が変えようとしている世界は、実のところ普遍的な意味での「世界」ではなく、中坊という境遇においては不可避な、それでいて不条理で不快な現実という実はとても狭い閉ざされた「現実世界」でしかなかった。
作中で登場人物の一人が言うように、中二病を卒業してごく普通の高校生らしい「高校生活」をごく普通に送ることを選んだと思っているとしても、その「普通の高校生活」というものも、実は自分が勝手に思い描いた「普通」のイメージにとらわれたものでしかなく、結局のところ中二病であれ普通の高校生活であれ、自分が設定した境界世界のなかで自らが思い描いたものにすぎない。ひとは自分がそれが現実だと思う現実の中で生きているにすぎない。であれば現実の定義とは次のようなものになるであろう。現実とは、私がそれが現実だと思うところのものだ。人は生きている限り自らが欲望する「現実」を生き続けるのであり、その意味では、ひとはすべて一生中二病なのである。

中二病的なものを棄て、親や兄弟その他多くの人たちの言う公約数的な「現実」に身をあわせていくことが「現実を選ぶ」ことであるように、その何かがどれほど他人から「中二病的なもの」として非難されようとも、そのようなものが自分の中にあるという「現実」を認め、その現実を背負って「現実(リアル)の世界」を生きることもまた、「現実を選ぶ」とい意味では同等の行為であろう。

とはいえ、まだ小学生や保育園児である子どもたちにはまだこういう話はまだ難しいかもしれない。いつかもっと大きくなって、知恵とか常識がついて普通の人になりかけたときにもう一度見てもらいたいと思った作品である。