今年も夏が終わろうとしている。妻の仕事もここ一ヶ月は忙しかったが、その喧騒も過ぎ去ろうとしている。長男坊は小学校。家にいても窓を開け放していると寒い。今も靴下を履いている。もう屋外のプールは厳しいかもしれない。行きたいけど。

10月からの授業のことも真面目に考えなくてはいけないのだが、論理学、数学関係の本ばかり読んでいる。かつてひととおりは勉強したことがあるとはいえ、専門が分析哲学や論理学ではない自分の論理学授業は、思いかえすと「教える自分も勉強し直しながら教える」という、綱渡り的な、自転車操業的なものであったような気がする。
しかし、逆に、もう学ぶことはない、なんでも知っているし教えてやるという状態になって初めてものを教えるということなんてあるのだろうか。そうなるまえに普通の人間は寿命が尽きてしまうのでは。だとしたら、「自転車(操業)先生」でもいいのかなと思う。いいというより、それも仕方ないということだ。

今年の夏はあまり本が読めなかった。京極夏彦の本すら読みきっていない。