昨夜は妻が職場のひとたちと打ち合わせ&飲み会ということで、小学校から帰ってきた長男坊が進研ゼミを終わらせたタイミングでウニャ子を保育園に迎えに行き、そのまま夕飯を食べに行く。子どもたちはラーメン、そして僕はこのところすっかりはまってしまった焼きうどん。
その話をすると、実は妻も昼食にこの店で焼きうどんを食べたらしい。しかも大盛り。

日曜の同窓会で、退官される先生に(そもそもこの会は先生の退官祝いの意味もあったと後で知った)、「倫理」についての論文も書かなければだめだと言われた。僕のいままでの論文は主に知覚や他者、認識、芸術、政治哲学を扱ったものばかり。
特別「○○倫理」という表題のものはない。(○○には生命だったり環境だったり、各自が好きなものを入れてよい。)たしかに、なんとか倫理ということを研究しているアピールは大事なのだろう。その先生も生命倫理を研究したりしていたから余計にそういう感想を持ったのだろう。
もちろんその言わんとしているところはわかるし、頭でも理解できる。しかし、「就職に有利だから○○倫理について無理やり論文を書く」ということに恐ろしくやる気を感じられない。というか、倫理学を専門にしっかり研究してきた人たちと公募でポストを争うということになった場合、僕みたいな付け焼刃の倫理学論文1、2本でいったい何ができるというのだろうか。何か違う気がする。もちろん「世渡り」ということを考えるならば「就職に有利だから○○倫理について無理やり論文を書く」ことは必要なことなのだろうけれども、どうも今の自分にとっては違和感んばかりが募る。
そもそも「○○倫理」という表題を持つ論文はほんとうに倫理を問題にしているのか?「○○倫理」を研究しているということを、学者の社会に対する免罪符の代わり(自分は社会に貢献している・だから自分は許される)と考えているのであれば、それはちょっと違うのではないか。
など、よくまとまらない考えをつらつら話していたところ、妻に「スタイルを変えるな」という助言をもらった。助言をもらった、というか『女帝』(最近妻がiphoneで読んでいる)という漫画でそう言ったよ、と教えたもらった。
このマンガは家庭の不幸をのりこえ、成功をつかむために火の国熊本から上京し、銀座の女帝になろうとするまさに火の国の女的主人公を描いたものらしい。そのストーリーの展開の中で、低料金・カジュアルを売りにする店が銀座周辺に乱立し、そこに客が流れてしまう。銀座の人たちは弱気になってしまって、銀座もカジュアル化しなけらばならないのではないかという流れになったとき、銀座に飲みに行くということを励みに日々仕事している客もいる。ステイタスにしている客もいる。だから「スタイルは変えるな」と主人公は喝を入れる。なるほど〜と思いつつも、そう考えるなら「スタイルを変えずに変わること」も可能なのではないかと思った。