仕事が早く終わった日、図書館に寄って春樹さんの『1Q84』を借りて帰ろうと思ったら、貸し出し中で予約が4人も。世の中甘くない。

でも、手ぶらで帰るのも気まずかったので、ちょうど斉藤環の新しい本が目に入ったので、挙動不審っぽくカウンターに本を持って行き、貸し出し手続き。

関係の化学としての文学

関係の化学としての文学

「延滞が5冊あります。早く返してください」と言われ、ビクッとなる。その5冊って、すべてぼっちゃんの・・・。

この本の中でクローズアップされる桐野夏生の小説ってあまり読んだことないのだが、それでも書いてあることがいちいちビシバシとキマッっていて面白い。

昨今話題の「萌え」という言葉が隠蔽しようとしてるのは、おたく的嗜好のポルノグラフィックな側面だけではない。それが単に虚構内キャラクターを対象とする擬似恋愛感情と理解されることで、そこに厳然とあるセクシャリティの差異は曖昧化されてしまう。その差異なるものをごく簡単に整理しておくなら、男性は美少女キャラの所有可能性に「萌え」、女性は美(少)青年キャラ同士の関係性に「萌える」ということだ。(p.47)

そう、「現実」はときには真理の抑圧装置なのだ。凡庸な「現実主義」がしばしば紋切り型の観念論に似てみえるというパラドクスの事例は枚挙にいとまがない。セクシャリティの真理は、虚構の中にこそ純粋な形で潜んでいる。そして私は付け加えるであろう。やおい分析の可能性の中心こそが「関係の精神分析」にほかならないのだ、と。(p.50)

うっ・・・面白い・・・で、でも、こんなこと面白がってたらまっとうなサラリーマンになれないっっ!ダメだ!逃げちゃダメだ!!