強風でドアがあく。

待ち時間、空いた時間、それをどう呼べばいいのかわからないが、とにかく娘が暴走しないように横目で見ながら、開架棚から洲之内徹の『セザンヌの塗り残し』や『きまぐれ美術館』を選んで座布団の上に座った。

なんというか、昨今の美術批評にありがちな「なにか思想めいたことをスマートに語るために絵を語る」語り方ではなく、詩情がありながらドライ、一行目から話が脱線しながらあちこちいろんな方向に走り出し、にもかかわらず「絵を語るために語る」という語り方に貫かれていて、どの文章も思わず最後まで引き込まれ、読んでしまう。

ゴッホピカソについて大上段から語るといったものは一つもなく、一般に「洲之内コレクション」と言われる本人所蔵のコレクション―けっしてメジャーとはいえない、むしろマイナーで無名だけれど「買えなければ盗んででも自分のものにしたくなる絵なら、まちがいなくいい絵である」という彼本人の言葉を基準として洲之内本人が手元に置いたコレクション―について、作家との思い出や洲之内自身の過去や画廊店主としての日々が交錯しながら静かに語られている。
大学教授や有名美術館学芸員による学術的な美術批評とは別の、もっと古くは青山二郎小林秀雄、さらには坂崎乙郎、今泉篤男などの系等に属するような、このような「目利き」としての批評というのは今日の日本にまだどれぐらい生きているのだろうか。このような目利き的な審美眼は、これから先も生き残っていけるのだろうか。難しいことはよくわからない。

洲之内徹の本を探すと、意外と手に入りにくい。まとまった著作集や全集はなく、単行本はどれも絶版で、古本でしか手に入らないようだ。夜中に、妻が数年前に買ってきてくれた『洲之内徹が盗んででも自分のものにしかった絵』というアンソロジー本をチビチビ読んだ。

洲之内徹が盗んでも自分のものにしたかった絵

洲之内徹が盗んでも自分のものにしたかった絵

この「洲之内コレクション」は、洲之内徹の没後、宮城県美術館にすべて収蔵され、常設展示されているのを知って愕然とした。まさに昨年、学会で仙台に行って、しかもこの美術館にも用事で寄ったのだった・・・。知らなかったとはいえ、もったいないことをした。

ゲラの校正(×2)や書類もろもろを書き上げてホッとしていると、長女ウニャ子が発熱。朝晩の冷えと、日中の残暑の厳しさ、そして何よりもこのところの湿度の高さで少し喘息も出ている模様。そういうわけで木曜日は保育園もを休んだが、昨日の時点でかなり元気。しかし念のため大事をとって金曜日も休んだが、今週末は3連休だったのね・・・。そんなわけでウニャ子は5連休。

公募関係で「教育上の抱負」というものを書くことがあるのだが、さすがに昔と違って、実際のささやかな教育経験から言えることや、それをふまえてやりたいことなどを書けるようになっていて、自分でも驚いた。何かを長くやり続けるということはこういうことか、と思った。

京極夏彦鉄鼠の檻』、内田樹『修業論』読了。ウチダ本は分量も少ないので一日で読んでしまったが、まぁ、いつもの話といえばいつもの話だった。しかし、ウチダさんにとっての方法序説というか、方法論としては興味深いと思った。

京極夏彦鉄鼠の檻』の1500ページは数字だけでも圧巻だが、内容も濃いものだった。ちゃんと読んだら禅の歴史とか考え方の理解に資するところが多いと思う。各宗派の関係性(臨済とか曹洞とか)の理解が物語の理解に関わってくるので、このあたりの記述は丁寧に読んだほうが良かったかもしれない・・・。また・・・いつか時間があったら・・・読み直すかも・・・。とはいえ、今まで読んだ京極本のなかでは一番おもしろかった。まだ4冊目だが。
しかし、自分の子どもたちも含めて、いまの若い子は幸せである。それはネットですぐに検索ができるからとかそういうのじゃなくて、たとえば禅とか、精神分析とか、霊と脳とか、民俗学とか憑物や信仰といったものに興味がわく中学2年生ごろになったころ、彼らには京極本があるのだ。自分達のころにもムーとかいろいろ怪しいムック本があったが、いまでもあるのだろうか?
京極先生のような黒の指貫グローブ(本人曰く「手甲」)の似合う大人になりたい。

今年も夏が終わろうとしている。妻の仕事もここ一ヶ月は忙しかったが、その喧騒も過ぎ去ろうとしている。長男坊は小学校。家にいても窓を開け放していると寒い。今も靴下を履いている。もう屋外のプールは厳しいかもしれない。行きたいけど。

10月からの授業のことも真面目に考えなくてはいけないのだが、論理学、数学関係の本ばかり読んでいる。かつてひととおりは勉強したことがあるとはいえ、専門が分析哲学や論理学ではない自分の論理学授業は、思いかえすと「教える自分も勉強し直しながら教える」という、綱渡り的な、自転車操業的なものであったような気がする。
しかし、逆に、もう学ぶことはない、なんでも知っているし教えてやるという状態になって初めてものを教えるということなんてあるのだろうか。そうなるまえに普通の人間は寿命が尽きてしまうのでは。だとしたら、「自転車(操業)先生」でもいいのかなと思う。いいというより、それも仕方ないということだ。

今年の夏はあまり本が読めなかった。京極夏彦の本すら読みきっていない。

8月も今日で終わり。夏休みの宿題もそろそろ追い込み・・・という家庭も多いとは思うが、うちのような田舎の小学校はすでに始業式も終わって二学期がはじまっている。といっても、毎日運動会の練習のようだが。

子どもの夏休みがはじまって・・・。何?何だったんだろう?よくわからないけど、とにかく今年は暑かった気がする。日記を更新する余裕もなかったが、今年は唐津のホテルでバカンスしたり、水族館に行ったり、妻の実家の宮崎に行ったり(諸事情あって僕と子どもらの3人で。妻は仕事のため留守番。)、長崎からきた友人家族と焼肉したり・・・。そうかんがえるとなかなか充実した夏だった。オレカ(子どもたちに流行っているゲーム)にも何回も連れて行ったなぁ・・・。
そういえば今年は水着も買い直して子どもと一緒にプールで何回も泳いだ。数えただけで6回。全部違う場所。クロールで100メートル泳いだら息が切れた。衰えを感じた。

学会年報の原稿校正(初校)も2つ完了。1つは注を大幅に入れ替える必要があったが、なんとかこれで許してくださいといった感じ。


唐津に行く途中、高速の金竜パーキングで見た三連飛行機雲

唐津の海

唐津のホテルのプール

プールサイドから見えた月

そういえば保育園の夕涼み会というものもあったな

水族館にも行った。


なぜか宮崎の写真が無かった。かなり余裕が無かった模様。

論理学講義、なんとか全日程を終了。最後の数回はとにかく練習問題をガンガンやって、授業そのものが試験対策という、なんとも面白みの無いものになってしまった。
やっと学生も心を開いてくれたというか、やっとお互い馴染んできたところで授業終了というのは少し寂しい気もするが、人生なんてそんなものかもしれない。彼らの健闘を祈る。

二つ投稿した論文の内、一つが修正再提出を求められたことは以前にも書いたが、もう一つのほうも結果が出た。こちらは修正なしで掲載決定とのこと。しかも講評のところに「構成・表現・記述が明快かつ的確」なんて書いてあって、ふだん褒められなれていない身としては「何か裏があるのでは?」と少し不安になった。しかし、これって前回の「手堅いがオリジナリティに欠ける」っていうことと実は激しく同意なんじゃ・・・と思ったり思わなかったり。まぁ、皮肉であれ何であれ、良しとしておこう。

しかし、再提出するほうの修正で徹夜などしてしまったせいで、なんとなく身体が疲れている。このところ夜中の12時を過ぎるととんでもない睡魔に襲われる。

そういえば保育園にウニャ子を迎えに行くと、保育園の先生たちに「お父さん、大丈夫ですか?」といろいろ心配される。どうやらウニャ子の話では、僕はわき腹に何かが当たって、それで腰を痛めて病院に運ばれた・・・らしい。そんな事実はまったく無いのだが、もしかして予知夢かなにかか?

昨日は街中を歩き回って古本やノート、雑誌を買う。ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』岩波文庫3冊揃や朝永振一郎の『量子力学と私』。月光荘のミニスケッチブック、ツバメノート(無地)。「考える人」の「数学は美しいか」特集など。

洗濯機を回しながら、やかんの表面についた黒いこげを重曹でこすりおとす。新品とまではいかないが、ずいぶんと綺麗になった。

きのうの授業は教師も学生も疲れていてイマイチ盛り上がらなかった・・・。他の実習や試験もかなり現実的な問題になってきているので、学生たちもあまり余裕がない。模擬テストと称してちょっと簡単な練習問題をやってみたが、うーん、これでも難しいか?すでに諦めてペンすら動かさない子もいるのだが・・・。
子どもたち(といっても10代後半だが)を見ていると、必要以上に間違えることを怖がっているというか、わからないことについては案外早々に諦めてしまうように見える。
しかし「理解することを諦める」ということは、理解する過程でどうしても避けられない失敗やミス、そして何よりも他人からの評価を恐れているということか。まぁ、あまり人のことは言えないが・・・。

青い空の照りつける太陽。夏。洗濯物も子どもたちの靴もグングン乾く。
もしかして、張り切って買った除湿機はもう・・・用無し・・・なのか?

滝の如く地面を叩きつける雨が降ったかと思うと、次の瞬間には晴れ間が広がっていて・・・というような変な天候が一日続いたかと思うと、一夜明けて突然訪れた夏日。今年も夏がはじまる。

ウニャ子を保育園に送っていく。途中で車を止め(路駐ではない)、そこから保育園まで歩いていく。あぜ道から水田に飛び込む蛙。水路を進む蛇。ニワトリ。そんなこんなを眺めながらの登園。
「一緒に歩いてきてくれたんだから、お父さんにありがとうって言ったら?」と保育園の先生に言われると、「なんで?」とわりと真顔で答えるウニャ子であった。

投稿した論文の結果が一つ届く。一部修正を条件として掲載決定。再提出まで一週間しかないので本筋まで修正するのは難しいが、とにかく不採用よりは良かった。昔、発表で大失敗してトラウマ化していた某学会への投稿だったので、とりあえず何かは乗越えられたのかもしれない。それが何かはわからないけど。

それにしても、査読者のコメントがすべて「論旨も議論の整理も手堅いが独創性に欠ける」みたいな点で一致していて、われながら苦笑。まさに自分という人間の本質を言い当てられた気がする。